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2010.07.07
「ミエルヒ」が教えてくれたもの
今年の北海道は例年に無く異常気象のような気がします。いつもなら5月ともなれば温暖な気候となるはずが極めて寒く、そして6月にはいるや一気に真夏のような気温の日々・・・・。
先日地物のアスパラとズッキーニを買いに地元農家の野菜直売所に出かけたのですが、オバちゃんに話を聞くと「今年のアスパラは散々だったわ。最盛期の5月は寒さにやられ、6月からは暑さにやられでなかなかまともな品物が出来なかったあ。」と言っていました。確かに小生が買い求めたアスパラは今シーズン最後のモノだという事でしたが、全体的に細くて色味もあの濃い緑ではなく弱々しい感じの淡い緑でありました。
昨日今日と少しばかり熱気は収まっていますが、今シーズン最初の猛暑日(最高気温35度以上)を記録したのが、沖縄や大阪や埼玉の熊谷ではなく、北海道の足寄であり北見だとくれば、やはり異常気象と言えるのではないでしょうか。
さて本日の本題。またしてもHTB制作のテレビドラマ「ミエルヒ」についてであります。
今まではこのドラマの制作背景などについて、自分の思うところを書いてきましたが、今回は一本の作品として「ミエルヒ」が我々に何を伝えたかったのかについて少々思うところを語ってみたいと思います。
このお話は荒筋を言ってしまえば、片方の目を失明して10年ぶりに故郷に戻ってきた戦場カメラマンの剛(安田顕)が、獲れなくなったヤツメウナギ漁に毎日出る父(泉谷しげる)や昔の友人・隣人との日々の係りの中から、失明の恐怖を乗り越え、最後に自分の居場所を見つけ出す。そしてその場所とは何と大嫌いなはずの鄙びた故郷「江別」だった・・・・。というものです。
小生としては最後に主人公が「自分がそこにいることの意味」に気付いたときの「これしかできないんだ・・・・。」「ここでしか生きられないんだ・・・・。」というセリフに正直なところ違和感を感じていました。
『人間のもつエネルギーはそんな消極的なものではないんじゃないの? 植物じゃないんだし、行こうと思えばどこにだって行けるでしょう? ただ行った先に何が待ってるかはわからないけど・・・・。』というような感想でした。
それであっても「なぜこの故郷に戻ってくることになったのか?」というところが実は肝であるのに、その部分は正直言ってほとんど描ききれていない・・・・というのが何とも不満でありました。
そんなモヤモヤした気持ちに、高知県在住の映画批評家の「ヤマさん」(実はネットで偶然にも知り合った大学の同級生なんですが)の批評が一本筋道をつけてくれました。
「ヤマさん」はこの「ミエルヒ」を『居場所と生業ということについて、いろいろ思わせてくれる秀作だった。』と総括されています。
詳細は「ヤマさん」の映画批評のページ <間借り人の映画日誌 -『ミエルヒ』>を是非ご覧になってください。
その批評の中に次のような記述がありました。
>「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差なく、自身がライフワークのようにして携わり続けることのできるものが“なりわい”であり、住み続けられる場所が“居場所”なのだろう。それをそのように意識できるかどうか、再発見できるかどうかが分かれ目なのだろうが、生まれ育った地には必ずそういうものが待っている・・・・。
『「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差ない。』というヤマさんの指摘に小生はハッとさせられました。確かに自分の心が思っている状態と実際に行動した結果とは必ずしも一致していないのかもしれません。いや一致していないことのほうが圧倒的に多いでしょう。そして周りに影響を与えるのは、(まさしくそれがその人が存在したことの証しなのでしょうが、)それはその人の行動した結果からしか生まれてこないという厳然たる事実です。
そう考えれば、確かに『「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差ない。』という帰結になるわです。そんなことより『自身がライフワークのようにして携わり続けることのできるもの(=“なりわい”)』を見つけ、認め、まさにやり続けるところに人生の意義があるのかもしれません。そしてそうやって生きていく場所こそが自分の居場所になるのかもしれません。
ただ、なぜ故郷というものが自分の居場所になるのかについては、ヤマさんも説明してくれていません。小生にもわかりません。それこそそれは人智を超えた神様の領域の話になってくるのかもしれません。
またヤマさんはこうも指摘しています。
>華やかに注目される場所と豊かな所得を手にしていても、そこに居場所や生業としての皮膚感覚を得ることができていなければ、人の生は虚しく、生きることに難儀を強いられるような気がしてならない。
この言葉に小生も全くその通りといたく納得しました。田舎から大都会に出て暮している方の中にはこの言葉に強く共感される方が多いのではないでしょうか?
小生は贔屓目での批評になってしまいますが、ヤマさんは実に冷静に客観的にこの作品を批評してくれています。平均して毎日1本以上の映画作品を劇場で鑑賞し、批評活動を続けておられるヤマさんは、極力情緒を排し、これまでの映像作品との比較という視点も交えてこの「ミエルヒ」を論評してくれています。これは実に貴重だと思います。
ギャラクシー賞の優秀賞を獲ったことは素晴らしいことです。でもそれに浮かれてしまって、作品をもう一度制作者自身が吟味するということを忘れないで欲しいと小生は願っております。その意味でもHTBの制作担当の方はじめ、関係者の皆様にもこの批評を一度は読んでいただきたいと思うております。
先日地物のアスパラとズッキーニを買いに地元農家の野菜直売所に出かけたのですが、オバちゃんに話を聞くと「今年のアスパラは散々だったわ。最盛期の5月は寒さにやられ、6月からは暑さにやられでなかなかまともな品物が出来なかったあ。」と言っていました。確かに小生が買い求めたアスパラは今シーズン最後のモノだという事でしたが、全体的に細くて色味もあの濃い緑ではなく弱々しい感じの淡い緑でありました。
昨日今日と少しばかり熱気は収まっていますが、今シーズン最初の猛暑日(最高気温35度以上)を記録したのが、沖縄や大阪や埼玉の熊谷ではなく、北海道の足寄であり北見だとくれば、やはり異常気象と言えるのではないでしょうか。
さて本日の本題。またしてもHTB制作のテレビドラマ「ミエルヒ」についてであります。
今まではこのドラマの制作背景などについて、自分の思うところを書いてきましたが、今回は一本の作品として「ミエルヒ」が我々に何を伝えたかったのかについて少々思うところを語ってみたいと思います。
このお話は荒筋を言ってしまえば、片方の目を失明して10年ぶりに故郷に戻ってきた戦場カメラマンの剛(安田顕)が、獲れなくなったヤツメウナギ漁に毎日出る父(泉谷しげる)や昔の友人・隣人との日々の係りの中から、失明の恐怖を乗り越え、最後に自分の居場所を見つけ出す。そしてその場所とは何と大嫌いなはずの鄙びた故郷「江別」だった・・・・。というものです。
小生としては最後に主人公が「自分がそこにいることの意味」に気付いたときの「これしかできないんだ・・・・。」「ここでしか生きられないんだ・・・・。」というセリフに正直なところ違和感を感じていました。
『人間のもつエネルギーはそんな消極的なものではないんじゃないの? 植物じゃないんだし、行こうと思えばどこにだって行けるでしょう? ただ行った先に何が待ってるかはわからないけど・・・・。』というような感想でした。
それであっても「なぜこの故郷に戻ってくることになったのか?」というところが実は肝であるのに、その部分は正直言ってほとんど描ききれていない・・・・というのが何とも不満でありました。
そんなモヤモヤした気持ちに、高知県在住の映画批評家の「ヤマさん」(実はネットで偶然にも知り合った大学の同級生なんですが)の批評が一本筋道をつけてくれました。
「ヤマさん」はこの「ミエルヒ」を『居場所と生業ということについて、いろいろ思わせてくれる秀作だった。』と総括されています。
詳細は「ヤマさん」の映画批評のページ <間借り人の映画日誌 -『ミエルヒ』>を是非ご覧になってください。
その批評の中に次のような記述がありました。
>「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差なく、自身がライフワークのようにして携わり続けることのできるものが“なりわい”であり、住み続けられる場所が“居場所”なのだろう。それをそのように意識できるかどうか、再発見できるかどうかが分かれ目なのだろうが、生まれ育った地には必ずそういうものが待っている・・・・。
『「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差ない。』というヤマさんの指摘に小生はハッとさせられました。確かに自分の心が思っている状態と実際に行動した結果とは必ずしも一致していないのかもしれません。いや一致していないことのほうが圧倒的に多いでしょう。そして周りに影響を与えるのは、(まさしくそれがその人が存在したことの証しなのでしょうが、)それはその人の行動した結果からしか生まれてこないという厳然たる事実です。
そう考えれば、確かに『「これしかできない」であろうと「これこそがやりたい」であろうと実のところ大差ない。』という帰結になるわです。そんなことより『自身がライフワークのようにして携わり続けることのできるもの(=“なりわい”)』を見つけ、認め、まさにやり続けるところに人生の意義があるのかもしれません。そしてそうやって生きていく場所こそが自分の居場所になるのかもしれません。
ただ、なぜ故郷というものが自分の居場所になるのかについては、ヤマさんも説明してくれていません。小生にもわかりません。それこそそれは人智を超えた神様の領域の話になってくるのかもしれません。
またヤマさんはこうも指摘しています。
>華やかに注目される場所と豊かな所得を手にしていても、そこに居場所や生業としての皮膚感覚を得ることができていなければ、人の生は虚しく、生きることに難儀を強いられるような気がしてならない。
この言葉に小生も全くその通りといたく納得しました。田舎から大都会に出て暮している方の中にはこの言葉に強く共感される方が多いのではないでしょうか?
小生は贔屓目での批評になってしまいますが、ヤマさんは実に冷静に客観的にこの作品を批評してくれています。平均して毎日1本以上の映画作品を劇場で鑑賞し、批評活動を続けておられるヤマさんは、極力情緒を排し、これまでの映像作品との比較という視点も交えてこの「ミエルヒ」を論評してくれています。これは実に貴重だと思います。
ギャラクシー賞の優秀賞を獲ったことは素晴らしいことです。でもそれに浮かれてしまって、作品をもう一度制作者自身が吟味するということを忘れないで欲しいと小生は願っております。その意味でもHTBの制作担当の方はじめ、関係者の皆様にもこの批評を一度は読んでいただきたいと思うております。
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