2009.05.24
最近腹の立つこと・・・・
5月24日(日曜日)。3日ぶりの晴れ。昼間は暖かいのですが、夜は結構冷える日が続いています。
しばらくご無沙汰してしまいました。実は先週の前半は久しぶりの音楽制作のオファーがあって、その仕事に珍しく没頭していました。納期までの時間があまりなく、最後は完全徹夜状態で何とか納品しました。しかし哀しいかなこれがペイには直接結びつかないんです・・・・・。今回はCM音楽の依頼だったのですが、コンペということで落選すれば全てパア。一銭にもなりません。厳しいですなあ。そんな状況であっても徹夜をしたツケは確実に老いた我が身に跳ね返ってきます。そのあとちょっと体調を崩して(インフルエンザではありませんが)何もできず数日をダラーーッと過ごしていました。
そんな日々の中で、これまた久方ぶりに腹の立つニュースに出くわしましたので、ちょっとそのことについて思うところを・・・・。
それは国会議員の世襲制限に関する自民党の対応方針についてです。まあ選対委員長である古賀氏の「投票率は高くないほうがいい・・・・・。」という発言は、かつて早稲田に裏口入学した(ご自身がそう言っていた)森喜朗が「国民は寝ててくれたらいい・・・・。」という発言の二番煎じなのでどうでもいいとして、ここではあえて追求しません。問題は小泉元首相がその座を次男坊の進次郎氏に譲るとしていた、それこそ代議士の世襲問題に対する具体的な自民党選挙対策本部の方針が次のように決まったことです。それは「小泉進次郎氏は無所属で出馬する。自民党はこの選挙区に他の候補は立てない。そして進次郎氏が当選した場合後日無所属から自民党に加わってもらう・・・・・。」
何とも国民をバカにしたとしか言いようの無いやり口ですな。何のための世襲制限なのか? しかし自民党選挙対策本部の菅副本部長はこう発言していました。「公認と無所属では全く立場が違う。無所属では貼れるポスターの枚数や政見放送といった面で明らかに不利である。また当選後に無所属から特定政党へ入党するということは、今でも普通に行なわれてきていることであって、世襲制限とは全く無関係であり何の問題も無い・・・・・。」と。
自民党が世襲制限を進めるという方針を打ち出したとき、小泉Jrの取り扱いをどうするかについて、事前に党幹部と小泉元首相との間でしっかり根回しができていて、小泉元首相も「そういうことならOK」ということで、今回の世襲制限に関しては賛成するとのことで了解を得ているようであります。
自民党のやることはこんなことばっかりです。形だけは改革したというイメージを示しながら、その実態はしっかり裏道を作って、とどのつまり旧態依然とした利権構造をしっかり維持していく・・・・。
いくら相手の民主党がダラシないとしても、ここまで露骨に国民を欺き通すというんですから、国民も完全にナメられたものです。まあ騙されていることすら知ろうとしない国民が一番問題なんでしょうが。
こういう表面改革・実態利権維持という政策は山ほどあります。
この他には、合併施工方式による高速道路への税金投入があります。2006年に小泉構造改革で「これ以上無駄な高速(有料)道路は作らない!整備計画9342キロ以外は白紙。」という大前提を打ちたてはずなのに、今回の予算ではあっさりそれが覆されて高速道路への1兆円を超える税金投入が既定路線とされました。もし高速(有料)道路を作るのなら、民営化した各高速道路会社が自らの資金で作り、通行料で回収する。それ以外に必要な道路は政府が税金で作り、その場合は無料の道路となる・・・・というのが大前提でしたが、今回東京外郭環状道路(外環道)など3区間は、税金で建設費の大半を負担し、一部を高速会社が負担する「合併施行方式」という、これまた訳の分からない国民を欺くような手法を使っています。 これは、旧日本道路公団民営化議論の結果、民営化する公団の事業に国費を投入しないという2001年の閣議決定を事実上反故にしたものです。道路建設の90%相当に税金を投入し、道路会社は10%そこそこしかカネを出さず、出来上がった道路からはしっかり通行料を民間の道路会社が徴収する・・・・・。いいのかなあ?こんなデタラメ。
国会で民主党や共産党が厳しく指摘し、金子大臣はしどろもどろになっていましたが、それでも麻生首相は「2001年の閣議決定の趣旨は、採算のとれない道路について抑制するというもので、その意味からも今回の「合併施行方式」はこの閣議決定に反するものではない・・・・。」というこれまた答弁になってもいない答弁を繰り返して、結局国会の常であやふやなうちに押し切ってしまったわけです。
3点セットの最後は役人の天下り規制の骨抜き問題。
2007年安倍政権のもと役人の天下り規制を行うとして国家公務員法が改正され、「官民人材交流センター」なるものが設置されたわけです。その趣旨は、センターが再就職先をあっせんすることで、所属官庁の監督特権やら許認可権などといった特定の権限を背景にしたあっせんを廃止することで、官庁と天下り先との不明朗な関係を根絶することを目的としたものでした。しかしここにもしっかり抜け道がありました。この再就職あっせんの際の規定として「過去3年で2年以上、1億円以上の随意契約をした団体は対象外とする。」というものがあったのですが、昨年12月の設立から4月2日までに行なった38人のあっせんに際して、法務省の8人が再就職した「財団法人民事法務協会」がこの規定に抵触していることがわかったのであります。それを追求された河村官房長官は国会の答弁で「えっ?」としばし呆然とし、その後担当係員から渡されたメモを見て、「高度な専門的能力に着目した求人の場合は例外規定があるので、今回はそのケースであって問題ない」とシャアシャアと言ってのけました。実際のところ、係員から教えられるまで知らなかったわけですよ。まあそれはそれとして、この例外規定ってなんでしょうかね? こんなものが許されるのなら、言ってみれば全てOKってことじゃないでしょうか?
もうやんなっちゃいます。表向き改革・実態は骨抜き。こんなのばっかりです。本当に国民はバカにされたものです。ここまでバカにしても大丈夫だと踏んでいるんでしょうかね? 民主党には小沢のデカイ敵失があるから大丈夫・・・・ってことでやけに強気なもんです。
つらつら思うに、まあどんな社会でもそうなのかもしれませんが、利権構造は特定の集団がガッチリ握っていて、それをぶっ壊すことは並大抵じゃないということでしょうか。日本は1億総中流などと言われてきましたが、それも国民に不満を感じさせずにおくことで、自分達支配階級が安泰に過ごせるようにとの大衆操作だったんじゃないでしょうかねえ。
格差社会と言われる今日この頃ですが、何もつい最近始まったわけではなく、明治維新の頃からずっと日本は格差社会で来たわけです。戦後も結局は変わらなかった。そしてそれは政・官・財の緊密な癒着構造というものを基盤として維持し続けてきたわけです。おいしい思いをしている政・官・財の支配階級がその利権を手放すわけが無い。だからこんな表面改革・実態利権維持というような政策が堂々とまかり通っているわけですわな。
そうそう、小泉Jrの進次郎氏、なかなか優秀な人材だという情報もありますが、これまた特権階級の恩恵を最大限に活かした経歴作りだったようです。コロンビア大学大学院留学(在籍。卒業したかどうかは不明。)→米一流シンクタンク・CSIS(戦略国際問題研究所)就職。そして今度父親の跡を継いで政界入り・・・・、ということですが、それ以前の経歴を辿ってみると、地元の名門で総理の母校である県立横須賀高校を受験するも不合格。大学は関東学院大の経済学部に進学するも、4年で単位を修了できず留年・・・・。卒業後はしばらくフリーター生活を送っていた模様・・・・という情報がありました。そんな彼が米国で5番目に古い歴史を持ち、世界で最も入学難易度が高い大学の一つと言われるコロンビア大になぜ入学できたのか? なぜアメリカでも超一流のシンクタンクへ就職できたのか・・・・? いきなり超人的な能力にでも目覚めたのでしょうか? そんなこたーないでしょう(笑)。それを可能にした理由はただ一つ、「総理大臣の息子」というご威光・・・・。他に合理的な理由はちょっと思いつきません。日本もアメリカも特権階級はしっかりつながっているということです。だから小泉改革はアメリカの支配階級の要求をそのまま受け容れて実行されたものばかりだということ。それで息子は名門大学の大学院へご留学・・・・。
特権階級の方々が自分の努力で難関校に入学したり、超一流企業へ入学することに小生は何の異もありません。しかし自分たちが支配的な立場にいるということを利用するようなまねは噴飯モノです。なぜならば、支配階級の力の源である経済力なりの国力は一体誰が作り上げたものか?ということ。まさにごくごく一般の市井の人々の日々の努力が作り上げたものです。それをおいしいところを独り占めにして自分たちだけいい目をみようなどという根性は、あまりに醜悪です。今回のケースも結局小泉一族の醜悪さをしっかり裏付けるものになるでしょう。だからこそ小泉元首相は身内の話題に関してあれほどナーバスになっていたのか・・・・と今になって腑に落ちました。
ただ、いくらそんなことを叫んでみても、我々庶民は生まれてから死ぬまで汗にまみれ、泥まみれになって何とかはいつくばって生きていくだけ・・・・。それは子の世代でも職業がいかに変わろうとも結局は同じことの繰り返し・・・・。その一方で特権階級は厳然として世襲を繰り返すわけであります。殿様は殿様の道を行き、水呑み百姓は水呑み百姓の道を行く。多少ましになったとしても、決して殿様にはなれない。その意味では田中角栄氏は評価はいろいろあるでしょうが、この特権階級にまで登りつめた稀有な存在だったのではないでしょうか。今太閤という呼び名も実に的を得ていたように思います。しかしそんな彼も彼の一族も結局は彼の存在を好ましく思わない特権階級によって潰された・・・・。
有権者の一票で果たしてこの社会構造を変えることができるのかどうか? かつての市民革命が王政を打倒したように、共産革命が資本家を打倒したように、結局は新たな特権階級が古い特権階級に取って代わるだけのことではなかろうか・・・・? この頃では公平でフェアな社会などというもはユートピアなのではないかと、かなり自信がなくなってきたオヤジであります。
しばらくご無沙汰してしまいました。実は先週の前半は久しぶりの音楽制作のオファーがあって、その仕事に珍しく没頭していました。納期までの時間があまりなく、最後は完全徹夜状態で何とか納品しました。しかし哀しいかなこれがペイには直接結びつかないんです・・・・・。今回はCM音楽の依頼だったのですが、コンペということで落選すれば全てパア。一銭にもなりません。厳しいですなあ。そんな状況であっても徹夜をしたツケは確実に老いた我が身に跳ね返ってきます。そのあとちょっと体調を崩して(インフルエンザではありませんが)何もできず数日をダラーーッと過ごしていました。
そんな日々の中で、これまた久方ぶりに腹の立つニュースに出くわしましたので、ちょっとそのことについて思うところを・・・・。
それは国会議員の世襲制限に関する自民党の対応方針についてです。まあ選対委員長である古賀氏の「投票率は高くないほうがいい・・・・・。」という発言は、かつて早稲田に裏口入学した(ご自身がそう言っていた)森喜朗が「国民は寝ててくれたらいい・・・・。」という発言の二番煎じなのでどうでもいいとして、ここではあえて追求しません。問題は小泉元首相がその座を次男坊の進次郎氏に譲るとしていた、それこそ代議士の世襲問題に対する具体的な自民党選挙対策本部の方針が次のように決まったことです。それは「小泉進次郎氏は無所属で出馬する。自民党はこの選挙区に他の候補は立てない。そして進次郎氏が当選した場合後日無所属から自民党に加わってもらう・・・・・。」
何とも国民をバカにしたとしか言いようの無いやり口ですな。何のための世襲制限なのか? しかし自民党選挙対策本部の菅副本部長はこう発言していました。「公認と無所属では全く立場が違う。無所属では貼れるポスターの枚数や政見放送といった面で明らかに不利である。また当選後に無所属から特定政党へ入党するということは、今でも普通に行なわれてきていることであって、世襲制限とは全く無関係であり何の問題も無い・・・・・。」と。
自民党が世襲制限を進めるという方針を打ち出したとき、小泉Jrの取り扱いをどうするかについて、事前に党幹部と小泉元首相との間でしっかり根回しができていて、小泉元首相も「そういうことならOK」ということで、今回の世襲制限に関しては賛成するとのことで了解を得ているようであります。
自民党のやることはこんなことばっかりです。形だけは改革したというイメージを示しながら、その実態はしっかり裏道を作って、とどのつまり旧態依然とした利権構造をしっかり維持していく・・・・。
いくら相手の民主党がダラシないとしても、ここまで露骨に国民を欺き通すというんですから、国民も完全にナメられたものです。まあ騙されていることすら知ろうとしない国民が一番問題なんでしょうが。
こういう表面改革・実態利権維持という政策は山ほどあります。
この他には、合併施工方式による高速道路への税金投入があります。2006年に小泉構造改革で「これ以上無駄な高速(有料)道路は作らない!整備計画9342キロ以外は白紙。」という大前提を打ちたてはずなのに、今回の予算ではあっさりそれが覆されて高速道路への1兆円を超える税金投入が既定路線とされました。もし高速(有料)道路を作るのなら、民営化した各高速道路会社が自らの資金で作り、通行料で回収する。それ以外に必要な道路は政府が税金で作り、その場合は無料の道路となる・・・・というのが大前提でしたが、今回東京外郭環状道路(外環道)など3区間は、税金で建設費の大半を負担し、一部を高速会社が負担する「合併施行方式」という、これまた訳の分からない国民を欺くような手法を使っています。 これは、旧日本道路公団民営化議論の結果、民営化する公団の事業に国費を投入しないという2001年の閣議決定を事実上反故にしたものです。道路建設の90%相当に税金を投入し、道路会社は10%そこそこしかカネを出さず、出来上がった道路からはしっかり通行料を民間の道路会社が徴収する・・・・・。いいのかなあ?こんなデタラメ。
国会で民主党や共産党が厳しく指摘し、金子大臣はしどろもどろになっていましたが、それでも麻生首相は「2001年の閣議決定の趣旨は、採算のとれない道路について抑制するというもので、その意味からも今回の「合併施行方式」はこの閣議決定に反するものではない・・・・。」というこれまた答弁になってもいない答弁を繰り返して、結局国会の常であやふやなうちに押し切ってしまったわけです。
3点セットの最後は役人の天下り規制の骨抜き問題。
2007年安倍政権のもと役人の天下り規制を行うとして国家公務員法が改正され、「官民人材交流センター」なるものが設置されたわけです。その趣旨は、センターが再就職先をあっせんすることで、所属官庁の監督特権やら許認可権などといった特定の権限を背景にしたあっせんを廃止することで、官庁と天下り先との不明朗な関係を根絶することを目的としたものでした。しかしここにもしっかり抜け道がありました。この再就職あっせんの際の規定として「過去3年で2年以上、1億円以上の随意契約をした団体は対象外とする。」というものがあったのですが、昨年12月の設立から4月2日までに行なった38人のあっせんに際して、法務省の8人が再就職した「財団法人民事法務協会」がこの規定に抵触していることがわかったのであります。それを追求された河村官房長官は国会の答弁で「えっ?」としばし呆然とし、その後担当係員から渡されたメモを見て、「高度な専門的能力に着目した求人の場合は例外規定があるので、今回はそのケースであって問題ない」とシャアシャアと言ってのけました。実際のところ、係員から教えられるまで知らなかったわけですよ。まあそれはそれとして、この例外規定ってなんでしょうかね? こんなものが許されるのなら、言ってみれば全てOKってことじゃないでしょうか?
もうやんなっちゃいます。表向き改革・実態は骨抜き。こんなのばっかりです。本当に国民はバカにされたものです。ここまでバカにしても大丈夫だと踏んでいるんでしょうかね? 民主党には小沢のデカイ敵失があるから大丈夫・・・・ってことでやけに強気なもんです。
つらつら思うに、まあどんな社会でもそうなのかもしれませんが、利権構造は特定の集団がガッチリ握っていて、それをぶっ壊すことは並大抵じゃないということでしょうか。日本は1億総中流などと言われてきましたが、それも国民に不満を感じさせずにおくことで、自分達支配階級が安泰に過ごせるようにとの大衆操作だったんじゃないでしょうかねえ。
格差社会と言われる今日この頃ですが、何もつい最近始まったわけではなく、明治維新の頃からずっと日本は格差社会で来たわけです。戦後も結局は変わらなかった。そしてそれは政・官・財の緊密な癒着構造というものを基盤として維持し続けてきたわけです。おいしい思いをしている政・官・財の支配階級がその利権を手放すわけが無い。だからこんな表面改革・実態利権維持というような政策が堂々とまかり通っているわけですわな。
そうそう、小泉Jrの進次郎氏、なかなか優秀な人材だという情報もありますが、これまた特権階級の恩恵を最大限に活かした経歴作りだったようです。コロンビア大学大学院留学(在籍。卒業したかどうかは不明。)→米一流シンクタンク・CSIS(戦略国際問題研究所)就職。そして今度父親の跡を継いで政界入り・・・・、ということですが、それ以前の経歴を辿ってみると、地元の名門で総理の母校である県立横須賀高校を受験するも不合格。大学は関東学院大の経済学部に進学するも、4年で単位を修了できず留年・・・・。卒業後はしばらくフリーター生活を送っていた模様・・・・という情報がありました。そんな彼が米国で5番目に古い歴史を持ち、世界で最も入学難易度が高い大学の一つと言われるコロンビア大になぜ入学できたのか? なぜアメリカでも超一流のシンクタンクへ就職できたのか・・・・? いきなり超人的な能力にでも目覚めたのでしょうか? そんなこたーないでしょう(笑)。それを可能にした理由はただ一つ、「総理大臣の息子」というご威光・・・・。他に合理的な理由はちょっと思いつきません。日本もアメリカも特権階級はしっかりつながっているということです。だから小泉改革はアメリカの支配階級の要求をそのまま受け容れて実行されたものばかりだということ。それで息子は名門大学の大学院へご留学・・・・。
特権階級の方々が自分の努力で難関校に入学したり、超一流企業へ入学することに小生は何の異もありません。しかし自分たちが支配的な立場にいるということを利用するようなまねは噴飯モノです。なぜならば、支配階級の力の源である経済力なりの国力は一体誰が作り上げたものか?ということ。まさにごくごく一般の市井の人々の日々の努力が作り上げたものです。それをおいしいところを独り占めにして自分たちだけいい目をみようなどという根性は、あまりに醜悪です。今回のケースも結局小泉一族の醜悪さをしっかり裏付けるものになるでしょう。だからこそ小泉元首相は身内の話題に関してあれほどナーバスになっていたのか・・・・と今になって腑に落ちました。
ただ、いくらそんなことを叫んでみても、我々庶民は生まれてから死ぬまで汗にまみれ、泥まみれになって何とかはいつくばって生きていくだけ・・・・。それは子の世代でも職業がいかに変わろうとも結局は同じことの繰り返し・・・・。その一方で特権階級は厳然として世襲を繰り返すわけであります。殿様は殿様の道を行き、水呑み百姓は水呑み百姓の道を行く。多少ましになったとしても、決して殿様にはなれない。その意味では田中角栄氏は評価はいろいろあるでしょうが、この特権階級にまで登りつめた稀有な存在だったのではないでしょうか。今太閤という呼び名も実に的を得ていたように思います。しかしそんな彼も彼の一族も結局は彼の存在を好ましく思わない特権階級によって潰された・・・・。
有権者の一票で果たしてこの社会構造を変えることができるのかどうか? かつての市民革命が王政を打倒したように、共産革命が資本家を打倒したように、結局は新たな特権階級が古い特権階級に取って代わるだけのことではなかろうか・・・・? この頃では公平でフェアな社会などというもはユートピアなのではないかと、かなり自信がなくなってきたオヤジであります。
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2009.05.12
1972 RCサクセション 「ぼくの好きな先生」
5月12日。雨。今日も寒い・・・・。しかし2週間ぶりの雨で、植物たちにとっては恵みの雨ですね。
しばらく間が空いてしまいましたが、忌野清志郎さんがお亡くなりになりました。謹んでお悔やみ申し上げます。やっぱりいい人は早く亡くなっちゃうんでしょうかね? 残念でなりません。
忌野清志郎、RCサクセションというと、その代表曲は「雨上がりの夜空に」であり、「スローバラード」ということになるのでしょうが、小生にとっては「ぼくの好きな先生」なんです。今のようにメイクをして唄う前の忌野清志郎であり、RCサクセションなんです。お聴きください。
1972 RCサクセション 「ぼくの好きな先生」
作詞 忌野清志郎 作曲 肝沢幅一 編曲 穂口雄右
それと小生は「さなえちゃん」も忌野清志郎が唄っていたとすっかり勘違いしていました。こちらは仲井戸麗市と加奈崎芳太郎のデュオ「古井戸」の曲で唄っていたのは仲井戸麗市でした。ただ仲井戸麗市は1979年に「古井戸」解散後、RCサクセションに正式加入し、その後1980年代のRC躍進の牽引車としてフロントマンの忌野清志郎と共に活躍していたこともあって、小生の頭の中で忌野清志郎と仲井戸麗市がごっちゃになっちゃったんだと思います。これはあの北野武も同じだったみたいで、あるテレビ番組で忌野清志郎の訃報に対するコメントで、「確か、さなえちゃんとか唄ってたんだよネエ・・・・」と言っていました。逆に言うと「さなえちゃん」という曲は、いかにも当時のRCサクセション風であったといえるのかもしれません。懐かしついでにこちらもどうぞ・・・・。
1972 古井戸 「さなえちゃん」 (作詞作曲:仲井戸麗市)
しかし忌野清志郎はやぱりタダモノではありません。目立たないところでも実に素晴らしい活躍をされていました。日本初のミリオンセラーを記録したあの井上陽水のLP「氷の世界」に収録された「帰れない二人」は作詞作曲ともに井上陽水と忌野清志郎の合作だということをつい最近知りました。小生も珍しいことにこのLPは買ったのですが、全曲井上陽水のオリジナルだとばかり思い込んでいました。ただ、「帰れない二人」という曲はあの暗い暗いLPの中で、少しホットできるような、温もりを感じさせる小曲で、この曲が入ることでワンポイントの色彩が加わったような多大な効果を生んでいたように思います。そしてそれはまさに忌野清志郎の音楽世界だったんでしょう。井上陽水一人では絶対にあの曲は生まれなかったでしょうから・・・・。
そんな隠れた名曲「帰れない二人」を作者の忌野清志郎と井上陽水が唄っている動画がありましたので、是非お聴きいただきたいと思います。
1972 井上陽水&忌野清志郎 「帰れない二人」
初めて忌野清志郎が唄うのを聴きました。ハッキリ言って陽水が唄うよりもシックリくるような気がします。この曲は作曲はどちらかというと忌野清志郎がメインで出来上がったのではないか?という感じがします。それほどにメロディラインと清志郎のボーカルがフィットしていますね。実にいい曲です。この曲にはバックに細野晴臣や高中正義が参加しているとのことです。1990年の相米慎二監督の映画「東京上空いらっしゃいませ」の主題歌として使用されたとのこと。さもありなんと思います。
本当に惜しい人を亡くしたような気がします。ファンと言えるほど傾倒したわけではないのですが、その強い個性と音楽性は充分伝わってきていました。 しかし忌野清志郎があんなパンク・ロック風に変身したのはいつ頃からだったのでしょうかね? 小生が知っている忌野清志郎は当然メイクもしていなかったし、ヘアスタイルは丁度雨上がり決死隊の蛍原のようなマッシュルーム・カットだったような記憶があります。また最近でもメイクをしたり、ギンギラの衣装を着るのはステージ上だけで、普段は(髪型は別として)そんなにぶっ飛んだものではなく、極めて自然体だった・・・・。ということは、あの衣装やメイクは彼にとっての戦闘服だったということなのかな?
対人関係にあっては、人間誰しも多かれ少なかれ無意識のうちに鎧を着けていると言われます。忌野清志郎はそれをあえて意識的にやっていたということなのかもしれません。ただそれは音楽を表現する者としての立場に立っているときだけであって、それ以外の場面では鎧を着けていなかったような気もします。裸の自分をさらけ出すことはなかなかできるものではありません。そう考えれば、やっぱり忌野清志郎、デカイ人間だったのかなと思い知らされます。
今日たまたまアメリカの作曲家、コール・ポーターの半生を描いた映画「五線譜のラブレター DE-LOVELY」(監督:アーウィン・ウィンクラー、主演:ケビン・クライン、アシュレー・ジャド)を見たのですが、その中にも「どうせ何かに成りすますのなら、道化師(ピエロ)になりなさい。そうすりゃみんなハッピーさ。」という場面(ミュージカル・シーン)がありました。小生も無意識のうちに他者と対面する際、戦闘的な鎧を身に纏っているんでしょうかね? おそらくそうなんでしょう。だから相手も戦闘的に対応する・・・・。やっぱりまず我が身を何とかしなくちゃいけないんでしょうね。忌野清志郎と違って、小生のような小者には裸の自分をさらけ出すだけの度量はありません。そうなると鎧をピエロの衣装に変えることなんでしょうかね? それもかなり難しそうです。北風と太陽の喩えではありませんが、太陽のような暖かさを相手に感じてもらえるような人格者になれれば一番いいんでしょうが・・・・・・。
しばらく間が空いてしまいましたが、忌野清志郎さんがお亡くなりになりました。謹んでお悔やみ申し上げます。やっぱりいい人は早く亡くなっちゃうんでしょうかね? 残念でなりません。
忌野清志郎、RCサクセションというと、その代表曲は「雨上がりの夜空に」であり、「スローバラード」ということになるのでしょうが、小生にとっては「ぼくの好きな先生」なんです。今のようにメイクをして唄う前の忌野清志郎であり、RCサクセションなんです。お聴きください。
1972 RCサクセション 「ぼくの好きな先生」
作詞 忌野清志郎 作曲 肝沢幅一 編曲 穂口雄右
それと小生は「さなえちゃん」も忌野清志郎が唄っていたとすっかり勘違いしていました。こちらは仲井戸麗市と加奈崎芳太郎のデュオ「古井戸」の曲で唄っていたのは仲井戸麗市でした。ただ仲井戸麗市は1979年に「古井戸」解散後、RCサクセションに正式加入し、その後1980年代のRC躍進の牽引車としてフロントマンの忌野清志郎と共に活躍していたこともあって、小生の頭の中で忌野清志郎と仲井戸麗市がごっちゃになっちゃったんだと思います。これはあの北野武も同じだったみたいで、あるテレビ番組で忌野清志郎の訃報に対するコメントで、「確か、さなえちゃんとか唄ってたんだよネエ・・・・」と言っていました。逆に言うと「さなえちゃん」という曲は、いかにも当時のRCサクセション風であったといえるのかもしれません。懐かしついでにこちらもどうぞ・・・・。
1972 古井戸 「さなえちゃん」 (作詞作曲:仲井戸麗市)
しかし忌野清志郎はやぱりタダモノではありません。目立たないところでも実に素晴らしい活躍をされていました。日本初のミリオンセラーを記録したあの井上陽水のLP「氷の世界」に収録された「帰れない二人」は作詞作曲ともに井上陽水と忌野清志郎の合作だということをつい最近知りました。小生も珍しいことにこのLPは買ったのですが、全曲井上陽水のオリジナルだとばかり思い込んでいました。ただ、「帰れない二人」という曲はあの暗い暗いLPの中で、少しホットできるような、温もりを感じさせる小曲で、この曲が入ることでワンポイントの色彩が加わったような多大な効果を生んでいたように思います。そしてそれはまさに忌野清志郎の音楽世界だったんでしょう。井上陽水一人では絶対にあの曲は生まれなかったでしょうから・・・・。
そんな隠れた名曲「帰れない二人」を作者の忌野清志郎と井上陽水が唄っている動画がありましたので、是非お聴きいただきたいと思います。
1972 井上陽水&忌野清志郎 「帰れない二人」
初めて忌野清志郎が唄うのを聴きました。ハッキリ言って陽水が唄うよりもシックリくるような気がします。この曲は作曲はどちらかというと忌野清志郎がメインで出来上がったのではないか?という感じがします。それほどにメロディラインと清志郎のボーカルがフィットしていますね。実にいい曲です。この曲にはバックに細野晴臣や高中正義が参加しているとのことです。1990年の相米慎二監督の映画「東京上空いらっしゃいませ」の主題歌として使用されたとのこと。さもありなんと思います。
本当に惜しい人を亡くしたような気がします。ファンと言えるほど傾倒したわけではないのですが、その強い個性と音楽性は充分伝わってきていました。 しかし忌野清志郎があんなパンク・ロック風に変身したのはいつ頃からだったのでしょうかね? 小生が知っている忌野清志郎は当然メイクもしていなかったし、ヘアスタイルは丁度雨上がり決死隊の蛍原のようなマッシュルーム・カットだったような記憶があります。また最近でもメイクをしたり、ギンギラの衣装を着るのはステージ上だけで、普段は(髪型は別として)そんなにぶっ飛んだものではなく、極めて自然体だった・・・・。ということは、あの衣装やメイクは彼にとっての戦闘服だったということなのかな?
対人関係にあっては、人間誰しも多かれ少なかれ無意識のうちに鎧を着けていると言われます。忌野清志郎はそれをあえて意識的にやっていたということなのかもしれません。ただそれは音楽を表現する者としての立場に立っているときだけであって、それ以外の場面では鎧を着けていなかったような気もします。裸の自分をさらけ出すことはなかなかできるものではありません。そう考えれば、やっぱり忌野清志郎、デカイ人間だったのかなと思い知らされます。
今日たまたまアメリカの作曲家、コール・ポーターの半生を描いた映画「五線譜のラブレター DE-LOVELY」(監督:アーウィン・ウィンクラー、主演:ケビン・クライン、アシュレー・ジャド)を見たのですが、その中にも「どうせ何かに成りすますのなら、道化師(ピエロ)になりなさい。そうすりゃみんなハッピーさ。」という場面(ミュージカル・シーン)がありました。小生も無意識のうちに他者と対面する際、戦闘的な鎧を身に纏っているんでしょうかね? おそらくそうなんでしょう。だから相手も戦闘的に対応する・・・・。やっぱりまず我が身を何とかしなくちゃいけないんでしょうね。忌野清志郎と違って、小生のような小者には裸の自分をさらけ出すだけの度量はありません。そうなると鎧をピエロの衣装に変えることなんでしょうかね? それもかなり難しそうです。北風と太陽の喩えではありませんが、太陽のような暖かさを相手に感じてもらえるような人格者になれれば一番いいんでしょうが・・・・・・。
2009.05.11
1973 RedBone 「Come and Get Your Love」
5月11日。曇りきょうもまた強風。5月も中旬だというのに朝晩がかなり冷え込みます。一端暖房は完全に停止させたのですが、あまりの寒さに今日の夕方からまた稼動させてしまいました。しかし北海道は何ですか?暖房を使う期間を良く良く考えてみると、秋口は10月からで、11月、12月、1月、2月、3月、4月、5月・・・・・何と12ヶ月のうち7ヶ月は暖房のお世話にならなきゃいけないんですな。ものすごくエネルギーを必要とする土地柄というわけです。ふう。
それでも日中は20度近くになり、庭の草花も一生懸命生命の輝きを見せてくれています。わが庵には桜はないのですが、それに代わってジューン・ベリーの樹が1本あって、今真っ白な花を咲かせています。まさに満開。しかし厄介者(雑草)もしっかり生命力を発揮していまして、今日は夕方雑草抜きに追われました。一番厄介なのがスギナで、毎年根っこから抜いても抜いても春になるとゾンビのように甦ります。しゃがみこみながら移植ゴテで掘り起こしながら抜いていくのですが、これが結構なハードワークなのであります。わが庭の土があまり質が良くないこともあって、まず堅いんです。1本のスギナを抜くのにも、移植ゴテの取っ手の先を手のひらに押し付けて思い切り土に差し込まなくちゃなりません。そんなこんなで気が付けば右手のひらは皮がむけ、脚はまるでうさぎ跳びをした後のような状態です。作業したのは1時間ほどですが、カラダは結構ボロボロのオヤジであります。
さて、先日インディアンをテーマにした楽曲を取り上げてみましたが、実際演奏していたり唄っているのは白人というケースでした。では先住民族のバンドなり歌手はいなかったのか?と探してみましたらしっかり存在していました。その代表格はRedBone(レッド・ボーン)。
バンドメンバー全員が先住民族のみで編成されたロック・バンドとして初めて米国でトップ10ヒットを記録しています。ヤキ族の出身のパトリック・ヴァスケス(Bass・Vocal)とロリー・ヴァスケス(Guitar・Vocal)のヴァスケス兄弟を核に、叔父はナバホ族の酋長というギタリストのトニー・ベラミー、シャイアン族の出身のドラムスのピーター・デポー・・・・。プロフィール的にはなかなか迫力があります(悪い意味じゃなくて)。
しかしこのバンドはインディアン的な部分(政治的メッセージ)を前面に押し出したバンドではありませんでした。各自が実にテクニックに優れていてジャズ的な演奏もすれば、歌もコーラスも抜群に上手く、。まさに他のポピュラー・ミュージックのバンドと同じ土俵で勝負していました。ロリー・ヴァスケスはハモンド・オルガンでおなじみのレスリー・ロータリー・スピーカーにエレキ・ギターを繋いだ先駆者であり、ドラムスのピーター・デポーはキング・コング・スタイルというドラムの手法を用いたパイオニア的存在でもあったようです。まずは彼らの最大のヒット曲を聴いてみて下さい。
1973 RedBone 「Come and Get Your Love」
何ともモータウン・サウンドのようです。ポップで踊れる曲です。しかし彼らはWounded Knee(ウンデッドニーの虐殺)についても唄っています。このあたりは民族的な誇りをしっかり持ち続けている証なんでしょうね。
Redbone Wounded Knee
小生はほとんど知らなかったのですが、70年代ではネイティヴ・アメリカンのミュージシャンというとJesse Ed Davis(ジェシ・エド・デイヴィス)が人気があったようです。こちらもよろしければどうぞ・・・・・。
Youtube動画:JESUS WAS AN OUT LAW TOO Bobby Jameson, Jesse Ed Davis, Randy Newman
他にネイティブ・アメリカンのミュージシャンはいないかと調べてみましたら、いました。リタ・クーリッジ(Rita Coolidge)。1945年5月1日、アメリカ合衆国テネシー州生まれ。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引いているそうです。1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動を開始し、1970年レオン・ラッセルらと共にジョー・コッカーの「Mad Dogs & Englishmen」に参加したリタは、ソロ・パートを与えられ、そこでかの名曲「Superstar」を歌って大いに注目を集め遂にA&Mからソロ・デビューする機会を得ることになります。彼女は実にモテたようで、当時はレオン・ラッセルと付き合っていたとか・・・・。その後ステーヴン・スティルスとグレアム・ナッシュが彼女を巡って三角関係・・・・・。なかなかお盛んだったようですな。
そしてクリス・クリストファースンが彼女を射止めることになります。結婚したクリスとリタが1973年に発表したデュエット・アルバム「Full Moon」に収録された「From The Bottom To The Bottom」でグラミー賞のカントリー・デュオ&グループ部門を受賞します。続いて第2弾のアルバム「Breakaway」からも「Lover Please」で同賞受賞。かくしてリタはメジャー・シンガーとして認知される存在となったわけです。しかしその後もカバー曲のヒットがほとんどで、彼女自身(ソロ)の代表曲と言えるものはなかなか見当たりません。
そんなリタですが、1994年、ロビー・ロバートソン(元ザ・バンド)が、アメリカ・インディアンをテーマとしたアルバム「MUSIC FOR THE NATIVE AMERICANS」を制作するにあたり、姉のプリシラとその娘のローラ・サッターフィールドと共に同作に参加します。これを契機に近年の彼女はチェロキー・インディアンの血を引く自身のルーツを探求する姿勢を強く持ち、「Cherokee」というアルバムを発表します。また、リタ、プリシラ、ローラの3人は、チェロキー族の伝統を前面に出したグループWALELA(チェロキー語で“hummingbird”という意味)を結成し幅広く活動を展開しているようです。
ではそんな WALELA の曲を1曲。
WALELA Cherokee Morning Song - I am of the Great Spirit
ある情報によりますと、リタ・クーリッジは2004年に日本人の大学教授と再婚したとのこと・・・・。老いて尚お盛んであります。その日本人大学教授って誰? 実に興味あります。
それでも日中は20度近くになり、庭の草花も一生懸命生命の輝きを見せてくれています。わが庵には桜はないのですが、それに代わってジューン・ベリーの樹が1本あって、今真っ白な花を咲かせています。まさに満開。しかし厄介者(雑草)もしっかり生命力を発揮していまして、今日は夕方雑草抜きに追われました。一番厄介なのがスギナで、毎年根っこから抜いても抜いても春になるとゾンビのように甦ります。しゃがみこみながら移植ゴテで掘り起こしながら抜いていくのですが、これが結構なハードワークなのであります。わが庭の土があまり質が良くないこともあって、まず堅いんです。1本のスギナを抜くのにも、移植ゴテの取っ手の先を手のひらに押し付けて思い切り土に差し込まなくちゃなりません。そんなこんなで気が付けば右手のひらは皮がむけ、脚はまるでうさぎ跳びをした後のような状態です。作業したのは1時間ほどですが、カラダは結構ボロボロのオヤジであります。
さて、先日インディアンをテーマにした楽曲を取り上げてみましたが、実際演奏していたり唄っているのは白人というケースでした。では先住民族のバンドなり歌手はいなかったのか?と探してみましたらしっかり存在していました。その代表格はRedBone(レッド・ボーン)。
バンドメンバー全員が先住民族のみで編成されたロック・バンドとして初めて米国でトップ10ヒットを記録しています。ヤキ族の出身のパトリック・ヴァスケス(Bass・Vocal)とロリー・ヴァスケス(Guitar・Vocal)のヴァスケス兄弟を核に、叔父はナバホ族の酋長というギタリストのトニー・ベラミー、シャイアン族の出身のドラムスのピーター・デポー・・・・。プロフィール的にはなかなか迫力があります(悪い意味じゃなくて)。
しかしこのバンドはインディアン的な部分(政治的メッセージ)を前面に押し出したバンドではありませんでした。各自が実にテクニックに優れていてジャズ的な演奏もすれば、歌もコーラスも抜群に上手く、。まさに他のポピュラー・ミュージックのバンドと同じ土俵で勝負していました。ロリー・ヴァスケスはハモンド・オルガンでおなじみのレスリー・ロータリー・スピーカーにエレキ・ギターを繋いだ先駆者であり、ドラムスのピーター・デポーはキング・コング・スタイルというドラムの手法を用いたパイオニア的存在でもあったようです。まずは彼らの最大のヒット曲を聴いてみて下さい。
1973 RedBone 「Come and Get Your Love」
何ともモータウン・サウンドのようです。ポップで踊れる曲です。しかし彼らはWounded Knee(ウンデッドニーの虐殺)についても唄っています。このあたりは民族的な誇りをしっかり持ち続けている証なんでしょうね。
Redbone Wounded Knee
小生はほとんど知らなかったのですが、70年代ではネイティヴ・アメリカンのミュージシャンというとJesse Ed Davis(ジェシ・エド・デイヴィス)が人気があったようです。こちらもよろしければどうぞ・・・・・。
Youtube動画:JESUS WAS AN OUT LAW TOO Bobby Jameson, Jesse Ed Davis, Randy Newman
他にネイティブ・アメリカンのミュージシャンはいないかと調べてみましたら、いました。リタ・クーリッジ(Rita Coolidge)。1945年5月1日、アメリカ合衆国テネシー州生まれ。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引いているそうです。1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動を開始し、1970年レオン・ラッセルらと共にジョー・コッカーの「Mad Dogs & Englishmen」に参加したリタは、ソロ・パートを与えられ、そこでかの名曲「Superstar」を歌って大いに注目を集め遂にA&Mからソロ・デビューする機会を得ることになります。彼女は実にモテたようで、当時はレオン・ラッセルと付き合っていたとか・・・・。その後ステーヴン・スティルスとグレアム・ナッシュが彼女を巡って三角関係・・・・・。なかなかお盛んだったようですな。
そしてクリス・クリストファースンが彼女を射止めることになります。結婚したクリスとリタが1973年に発表したデュエット・アルバム「Full Moon」に収録された「From The Bottom To The Bottom」でグラミー賞のカントリー・デュオ&グループ部門を受賞します。続いて第2弾のアルバム「Breakaway」からも「Lover Please」で同賞受賞。かくしてリタはメジャー・シンガーとして認知される存在となったわけです。しかしその後もカバー曲のヒットがほとんどで、彼女自身(ソロ)の代表曲と言えるものはなかなか見当たりません。
そんなリタですが、1994年、ロビー・ロバートソン(元ザ・バンド)が、アメリカ・インディアンをテーマとしたアルバム「MUSIC FOR THE NATIVE AMERICANS」を制作するにあたり、姉のプリシラとその娘のローラ・サッターフィールドと共に同作に参加します。これを契機に近年の彼女はチェロキー・インディアンの血を引く自身のルーツを探求する姿勢を強く持ち、「Cherokee」というアルバムを発表します。また、リタ、プリシラ、ローラの3人は、チェロキー族の伝統を前面に出したグループWALELA(チェロキー語で“hummingbird”という意味)を結成し幅広く活動を展開しているようです。
ではそんな WALELA の曲を1曲。
WALELA Cherokee Morning Song - I am of the Great Spirit
ある情報によりますと、リタ・クーリッジは2004年に日本人の大学教授と再婚したとのこと・・・・。老いて尚お盛んであります。その日本人大学教授って誰? 実に興味あります。
2009.05.09
人を不愉快にさせる才能?
5月9日。終日うす曇かつ強風。ドヨーーンと鉛色の気持ちにさせるようなお天気でした。夜半になって雨が降り出しました。寒いです。雪にはならないでしょうが、お天道様が出てくれないと家の中が寒いです。もうゴールデンウイークも過ぎたので暖房を切ったのですが、夜中は寒いです。庭の草花も日が落ちると縮こまっているみたいです。
昨日は今日よりはいいお天気でした。しかし相変わらず風は強かった・・・・。
ついこの間しばらく使っていない電気製品にもたまには電気を通してやらなくちゃと思い立ち、Yahooオークションでやっと手に入れた古い古い8mmビデオ・デッキのスイッチを入れてみました。すると操作盤の各種の状態を表示する部分が一切表示されなくなっていました。再生は映像も音声も何ら問題なく、早送りや巻き戻しもOK。駆動系は大丈夫みたいのですが、1箇所にまとまっている状態表示板(音声レベルメーターやカウンター等々)が完璧にダウン。日常ほとんど使うことの無い機材なので、「もう使わないからいいや。」と思って割り切ってしまえばいいのですが、せっかく手に入れた古い機械だけど、完動状態で持っていたいという気持ちがムクムク湧き上がり、だいぶ前にミニコミ紙に広告が出ていた地元の町の修理屋さんのことを思い出し、果たして修理が可能なものかどうか聞きに行ってきました。
この8mmビデオ・デッキのほかにも、音楽製作に使っていたYAMAHAのマルチ・エフェクターもある日突然電源が入らなくなり、これも修理しなくちゃ・・・・と思っていたので、この件も一緒に聞いてみようと思って出かけたわけです。(あくまで事前に話を聞こうということで、現物は持っていきませんでした。)
その修理屋さんは、わが庵から車で5分程度のところにあるので、広告を見たときは近場に電気製品を何でも修理してくれる店ができたと思って喜んだものでした。頼れる地元の電気技術のお店と勝手に思い込んで、それで気楽に店を訪ねてみたわけですが、店に入ったところからちょっと嫌な感じがしました。電気製品の修理専門店であるにもかかわらず、店内が埃っぽい・・・・。修理を待っている家電製品もほとんど見当たらない。作業台は雑然としていて、作業道具も電気関係のパーツ類もパッと見には見当たらない・・・・。現れた店の人も電気修理をするというような服装には見えない・・・・。
以下実際のやり取りを記憶の範囲で再現してみます。
当方「ごめんください」 扉を開けると、立派なガタイの40代くらいの男性が出てくる。
当方「あのー、修理のことでちょっと相談にうかがったんですけど・・・・」 先方は無言
当方「どんなメーカーのどんな製品でも修理するとのことでしたが、音楽関係のYAMAHAのエフェクターなんかも修理できるでしょうか?」
先方「そりゃ難しいネエ。YAMAHAは部品も特殊だしネエ」。
(症状も聞かないうちから、いかにもやりたくなさそう。)
当方「そうなんですか。実は電源が入らなくなっちゃったんです。そんな場合でもどこに原因があるかを見つけてもらうことは可能ですか?」
先方「パワーユニットの問題だと思うけど。何とか部品を見つけて修理はできると思うよ。まあ1万8千円だな」(本当に面倒くさそう)
当方「そうですか・・・・・。」「あともう1件、8mmビデオの修理もお願いしたいんですが・・・・」
先方「8mmビデオねえ。面倒くさいからネエ。そういうお客さんも結構来るけど・・・・・」
当方「こちらは駆動系には全く問題なくて、操作盤の表示が一切出なくなっちゃったんで、バックライトが切れちゃったか、そのライトへの線が断線してしまったという極めて単純な原因なのかなと思ったりもするんですけど・・・・」
先方「ふーーん、オレ元SONYにいたのよ」
当方「それは別にいいんですけど・・・・・」
(実際SONYのメーカー修理には散々ヒドイ目にあってきたので、小生の心証的には良くない)
先方「こっちはまあ1万5千円かな。でも故障の原因を見つけるだけはやらないよ。細かい分解や組み立てだけやらされたんじゃたまんないよ。」
(このあたりから先方明らかに苛立ち始める。)
当方「こちらもそんなつもりは無いけれども、広告にも見積もり無料とあったんで、話を聞きに来ただけで・・・・・・。」
先方「それで何よ。ここはオレの店だ。だからオレには客を選ぶ権利があるんだよな。」
(顔が紅潮してきてる・・・・)
当方「えっ?」
(何が起こったのか、全くわからず当惑するのみ)
先方「だから、オレが客を選ぶんだよ。とっとと帰れや!」
(ぐっと自分を抑える小生)
当方「そうですか。わかりました。」 実に理不尽で不愉快な気分を抑えて店を出る・・・・。
一昔前までの小生だったら間違いなく大喧嘩でした。このときは良く自分を抑えたと思います。そして店を出てから思いました。「ひょっとしてオレって自分が気付かないうちに人を不愉快にさせてるんだろうか? あれほどまで腹を立てさせるほど嫌なヤツなんだろうか・・・・・・?」 これは結構小生を悩ませました。でも今回に限っては修理業者に修理を依頼する者として最低限のことを確認しただけで、余計なことも言っていないし、横柄な態度をとったわけでもありません。いろいろ思い返しているうちに唯一ここがポイントだったのかな?と思いついたのが、先方が「オレ元SONYにいたのよ」という言葉に対する小生の返しの「それは別にいいんですけど・・・・・」という言葉。
実は「先方はSONYの社員だったことに極めて高いプライドを持っていたのではないか?」。そうだとすれば、小生の返答はSONYというものに特別な評価を示さなかったわけで、それは即ち相手の誇りを傷付けた・・・・。本当のところはどうなのかわかりませんが、そのあたりから話の流れがおかしくなった感じがします。
でもこれまた変な話です。そんなにSONYの社員であることに極めて高いプライドを持つのであれば、どうして今こんな田舎町で一人で修理屋稼業をやっているんでしょうか? ずっとSONYに勤め続けていれば良かったのに・・・・・。まあそんなことを詮索してもしょうがありませんな。
ただ修理を依頼する立場からすれば、確かな知識と技術・経験によって適確にリーズナブルな価格で修理してもらえることに価値があるわけです。SONYのブランドが修理技術の水準を保証するものでも何でもありません。実際SONYのメーカー修理は酷いものです。そもそも修理する意思がハナからあまりありません。今回のケースでは先方さんは「SONYの元社員である=極めてレベルの高い修理技術を持っている」という自己評価でいるのかもしれませんが、当方は「SONYの元社員である=どの程度の修理技術を持っているかは未知数」という評価であります。このズレが先方のプライドを傷付けてしまったのでしょうか? 何とも厄介なものです。
確かにサラリーマンから一国一城の主になったりすれば、「ここはオレの店だ。だからオレに客を選ぶ権利がある。」と客に対して横柄な態度を取る商店主は結構多いのかもしれません。ラーメン屋・寿司屋・その他もろもろそんな店主がいるというような話も見聞きします。確かに非常識な振る舞いをする客や法を犯すようなことをする客に毅然として対応することは理解できます。しかし自分の感情を前面に押し出して、自分の気に食わない人間は相手にしないというのはどうなんでしょう? すべて主人の気分次第というような店は結局商売として成立しなくなるんじゃないでしょうか? 自分の評価と他者の評価のズレに気付かず、自分の評価と違う評価をする者は全て排除するという態度でいけば、そこには進歩というものは生まれません。そうなればもう後は下り坂しかないんじゃなかろうか・・・・と思います。いずれにしてもこんな店が生きていけるとすれば、それは地域独占状態だから。競争が生まれれば変わらざるを得ないでしょう。独占というものの弊害はこんな小さなところにもはびこっているんですな。
資本の論理でどう転ぶかわからない大資本の商業施設だけではなく、地域に根付いた個人商店やリサイクル・レストアなどの店がわが街には必要だと常々考えてきたオヤジでありますが、その個人商店の接客レベルの実情がこの程度となれば、あまり希望を持つのも如何なものかと思い知らされたような気がします。
それにしても不可解。どこに初対面の相手に「帰れ!」とまで言わせるだけのものがあったんでしょう? やっぱり小生自身がそれこそ自分の気付かないうちに相手を不愉快にさせるという特殊な才能を持っているんでしょうかね? 何も口にせずとも存在自体から相手を不快にさせるオーラが滲み出てるんでしょうかね? だとすると辛いなあ・・・・・。庵に引き籠りがちで、陽気に誘われてたまに外に出てみたらこんなザマです。いろいろと考えさせられながらも、少しずつ少しずつ人間嫌いになっていくオヤジであります。
昨日は今日よりはいいお天気でした。しかし相変わらず風は強かった・・・・。
ついこの間しばらく使っていない電気製品にもたまには電気を通してやらなくちゃと思い立ち、Yahooオークションでやっと手に入れた古い古い8mmビデオ・デッキのスイッチを入れてみました。すると操作盤の各種の状態を表示する部分が一切表示されなくなっていました。再生は映像も音声も何ら問題なく、早送りや巻き戻しもOK。駆動系は大丈夫みたいのですが、1箇所にまとまっている状態表示板(音声レベルメーターやカウンター等々)が完璧にダウン。日常ほとんど使うことの無い機材なので、「もう使わないからいいや。」と思って割り切ってしまえばいいのですが、せっかく手に入れた古い機械だけど、完動状態で持っていたいという気持ちがムクムク湧き上がり、だいぶ前にミニコミ紙に広告が出ていた地元の町の修理屋さんのことを思い出し、果たして修理が可能なものかどうか聞きに行ってきました。
この8mmビデオ・デッキのほかにも、音楽製作に使っていたYAMAHAのマルチ・エフェクターもある日突然電源が入らなくなり、これも修理しなくちゃ・・・・と思っていたので、この件も一緒に聞いてみようと思って出かけたわけです。(あくまで事前に話を聞こうということで、現物は持っていきませんでした。)
その修理屋さんは、わが庵から車で5分程度のところにあるので、広告を見たときは近場に電気製品を何でも修理してくれる店ができたと思って喜んだものでした。頼れる地元の電気技術のお店と勝手に思い込んで、それで気楽に店を訪ねてみたわけですが、店に入ったところからちょっと嫌な感じがしました。電気製品の修理専門店であるにもかかわらず、店内が埃っぽい・・・・。修理を待っている家電製品もほとんど見当たらない。作業台は雑然としていて、作業道具も電気関係のパーツ類もパッと見には見当たらない・・・・。現れた店の人も電気修理をするというような服装には見えない・・・・。
以下実際のやり取りを記憶の範囲で再現してみます。
当方「ごめんください」 扉を開けると、立派なガタイの40代くらいの男性が出てくる。
当方「あのー、修理のことでちょっと相談にうかがったんですけど・・・・」 先方は無言
当方「どんなメーカーのどんな製品でも修理するとのことでしたが、音楽関係のYAMAHAのエフェクターなんかも修理できるでしょうか?」
先方「そりゃ難しいネエ。YAMAHAは部品も特殊だしネエ」。
(症状も聞かないうちから、いかにもやりたくなさそう。)
当方「そうなんですか。実は電源が入らなくなっちゃったんです。そんな場合でもどこに原因があるかを見つけてもらうことは可能ですか?」
先方「パワーユニットの問題だと思うけど。何とか部品を見つけて修理はできると思うよ。まあ1万8千円だな」(本当に面倒くさそう)
当方「そうですか・・・・・。」「あともう1件、8mmビデオの修理もお願いしたいんですが・・・・」
先方「8mmビデオねえ。面倒くさいからネエ。そういうお客さんも結構来るけど・・・・・」
当方「こちらは駆動系には全く問題なくて、操作盤の表示が一切出なくなっちゃったんで、バックライトが切れちゃったか、そのライトへの線が断線してしまったという極めて単純な原因なのかなと思ったりもするんですけど・・・・」
先方「ふーーん、オレ元SONYにいたのよ」
当方「それは別にいいんですけど・・・・・」
(実際SONYのメーカー修理には散々ヒドイ目にあってきたので、小生の心証的には良くない)
先方「こっちはまあ1万5千円かな。でも故障の原因を見つけるだけはやらないよ。細かい分解や組み立てだけやらされたんじゃたまんないよ。」
(このあたりから先方明らかに苛立ち始める。)
当方「こちらもそんなつもりは無いけれども、広告にも見積もり無料とあったんで、話を聞きに来ただけで・・・・・・。」
先方「それで何よ。ここはオレの店だ。だからオレには客を選ぶ権利があるんだよな。」
(顔が紅潮してきてる・・・・)
当方「えっ?」
(何が起こったのか、全くわからず当惑するのみ)
先方「だから、オレが客を選ぶんだよ。とっとと帰れや!」
(ぐっと自分を抑える小生)
当方「そうですか。わかりました。」 実に理不尽で不愉快な気分を抑えて店を出る・・・・。
一昔前までの小生だったら間違いなく大喧嘩でした。このときは良く自分を抑えたと思います。そして店を出てから思いました。「ひょっとしてオレって自分が気付かないうちに人を不愉快にさせてるんだろうか? あれほどまで腹を立てさせるほど嫌なヤツなんだろうか・・・・・・?」 これは結構小生を悩ませました。でも今回に限っては修理業者に修理を依頼する者として最低限のことを確認しただけで、余計なことも言っていないし、横柄な態度をとったわけでもありません。いろいろ思い返しているうちに唯一ここがポイントだったのかな?と思いついたのが、先方が「オレ元SONYにいたのよ」という言葉に対する小生の返しの「それは別にいいんですけど・・・・・」という言葉。
実は「先方はSONYの社員だったことに極めて高いプライドを持っていたのではないか?」。そうだとすれば、小生の返答はSONYというものに特別な評価を示さなかったわけで、それは即ち相手の誇りを傷付けた・・・・。本当のところはどうなのかわかりませんが、そのあたりから話の流れがおかしくなった感じがします。
でもこれまた変な話です。そんなにSONYの社員であることに極めて高いプライドを持つのであれば、どうして今こんな田舎町で一人で修理屋稼業をやっているんでしょうか? ずっとSONYに勤め続けていれば良かったのに・・・・・。まあそんなことを詮索してもしょうがありませんな。
ただ修理を依頼する立場からすれば、確かな知識と技術・経験によって適確にリーズナブルな価格で修理してもらえることに価値があるわけです。SONYのブランドが修理技術の水準を保証するものでも何でもありません。実際SONYのメーカー修理は酷いものです。そもそも修理する意思がハナからあまりありません。今回のケースでは先方さんは「SONYの元社員である=極めてレベルの高い修理技術を持っている」という自己評価でいるのかもしれませんが、当方は「SONYの元社員である=どの程度の修理技術を持っているかは未知数」という評価であります。このズレが先方のプライドを傷付けてしまったのでしょうか? 何とも厄介なものです。
確かにサラリーマンから一国一城の主になったりすれば、「ここはオレの店だ。だからオレに客を選ぶ権利がある。」と客に対して横柄な態度を取る商店主は結構多いのかもしれません。ラーメン屋・寿司屋・その他もろもろそんな店主がいるというような話も見聞きします。確かに非常識な振る舞いをする客や法を犯すようなことをする客に毅然として対応することは理解できます。しかし自分の感情を前面に押し出して、自分の気に食わない人間は相手にしないというのはどうなんでしょう? すべて主人の気分次第というような店は結局商売として成立しなくなるんじゃないでしょうか? 自分の評価と他者の評価のズレに気付かず、自分の評価と違う評価をする者は全て排除するという態度でいけば、そこには進歩というものは生まれません。そうなればもう後は下り坂しかないんじゃなかろうか・・・・と思います。いずれにしてもこんな店が生きていけるとすれば、それは地域独占状態だから。競争が生まれれば変わらざるを得ないでしょう。独占というものの弊害はこんな小さなところにもはびこっているんですな。
資本の論理でどう転ぶかわからない大資本の商業施設だけではなく、地域に根付いた個人商店やリサイクル・レストアなどの店がわが街には必要だと常々考えてきたオヤジでありますが、その個人商店の接客レベルの実情がこの程度となれば、あまり希望を持つのも如何なものかと思い知らされたような気がします。
それにしても不可解。どこに初対面の相手に「帰れ!」とまで言わせるだけのものがあったんでしょう? やっぱり小生自身がそれこそ自分の気付かないうちに相手を不愉快にさせるという特殊な才能を持っているんでしょうかね? 何も口にせずとも存在自体から相手を不快にさせるオーラが滲み出てるんでしょうかね? だとすると辛いなあ・・・・・。庵に引き籠りがちで、陽気に誘われてたまに外に出てみたらこんなザマです。いろいろと考えさせられながらも、少しずつ少しずつ人間嫌いになっていくオヤジであります。
5月7日。晴れしかし今日も強風。いよいよゴールデン・ウイークも終わって、今日から仕事再開という感じですね。小生はゴールデン・ウイークも平日も全然関係ないのですが、それでも社会の中で生きている関係から、どうしても社会のタイム・スケジュールに従わなくてはならないわけであります。さてわが庵の小さな庭にも少しずつ花が増えてきました。クロッカスは終わってしまいましたが、今は水仙とヒヤシンスが咲き誇っています。宿根草が薄い青の花と小さな黄色い花を一面に咲かせ始めました。ムラサキツツジの裸枝の先にも少しずつ赤紫の花が・・・・・。もう少しするとこの庭も一面いきなりの花盛りになりそうです。北海道では桜が終わると一気にたくさんの植物が花を咲かせます。雪に閉ざされていたあの時期から一変して劇的に春がやってきます。こんなオヤジでも少し気持ちがワクワクします^^。
今日は病院に行って、帰宅後は桜見物がてらブラブラ歩いて定額給付金の申請書類を投函してきました。その足でカジュアル・シャツを1枚買って、ドラッグストアに寄って、食品スーパーで活タコの頭(刺身用)を買い、最後に地元のパン屋さんで食パンを買って帰ってきました。最近では一番歩いたかもしれないなあ・・・・。
さて、前回は70年代の洋楽でLed Zeppelinを紹介しましたが、今日はそのハード・ロック路線ではなくて、その前のGrand Funk Railroadからの派生です。グランド・ファンクのギター&ボーカルのマーク・ファーナーがインディアンの血を引いている・・・・ということで、そう言えば70年代前半はインディアンを題材にした曲が結構あったことを思い出しました。今日はそのあたりの楽曲をご紹介したいと思います。
まず最も有名で最も売れたのが、The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」でしょう。マーク・リンゼイとレイダースが唄うこの曲は1971年全米No.1の大ヒットとなりました。
1971 The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」
歌詞は、“例えネクタイをしてYシャツを着ていても、私の身体にはチェロキーの血が流れている。そしてチェロキーの世界はまた甦る・・・・”というような内容です。詳しくはDejavuさんのサイト Pops foreverをご覧ください。(その他の洋楽の名曲も目白押しですよ)
またThe Raiders 自身のライブ映像もありました。
Youtube動画:Paul Revere & The Raiders - Indian Reservation
さてアメリカ大陸の先住民族のインディアンですが、1960年代までは<American Indian>という表現が使われてきましたが、少数派集団の人権意識が高まった60年代末からは<Indian American(インディアン系アメリカ人)>または<First American(最初のアメリカ人)>となり、現在では<Native American>という表現に定着したとのことです。16世紀当時アメリカには200万から300万人の先住民族が暮らしていたといわれています。東海岸でアメリカ人が独立し西部開拓を進めるようになると、建前上は先住民各部族と条約を結んで土地を割譲させたが、そのうち条約を破って侵入したり、強制移住法を制定して追放したり、あるいは武力を使って虐殺するようになったのです。このため19世紀後半には人口が激減しました。しかし彼らは白人の支配化に入ることを頑なに拒みました。このため白人は先住民族を労働力として奴隷化することができず、やむを得ずアフリカから黒人を奴隷として連れてきたという説を目にしたことがあります。
それにしても70年代前半になぜインディアンを題材にした楽曲が多く公開されて支持されたのか?それはヒッピー文化(フラワー・ムーブメント)もかなり影響していたのではないかという気がします。1960年代に高まった黒人革命は他の少数派集団にも大きな影響を与え、1968年には<ブラック・パワー>に呼応して先住民族は<レッド・パワー>を叫び、復権運動を全国レベルで展開しました。この時期こそまさにヒッピー文化の絶頂期でもあって、反戦運動と共鳴するような形で白人優越主義に基づく社会体制への批判が急速に高まったのではないか・・・・・と推測します。
1970年の「ソルジャー・ブルー」を皮切りに、ハリウッド映画も先住民族に対する評価をそれまでの野蛮人的な立ち位置から一変させたと言われています。そして1975年、政府は先住民族の自己決定(Self Determination)の権利を認め、その権利は着実に回復されつつあるようですが、その一方で現在でも全米には286カ所の先住民族居住地(Indian Reservation)があり、約200万人の先住民族のほぼ3分の2がその中に住んでいるとのこと。そしてその居住地の多くは荒野にあり、住民の多くがいまなお貧困のうちに暮らしているというのが現実のようです。
「嘆きのインディアン」に続くヒットといえば、これでしょうか。
1973 CHER(シェール) 「Half Breed」
これは1973年のビルボードの年間ヒットチャートで20位にランキングされました。ちなみに一つ上の19位は、あのStevie Wonderの「You Are The Sunshine Of My Life」でありました。
歌詞の内容もチェロキー族の父と白人の母との間に生まれた自分が、父方母方それぞれから、社会からも軽蔑された・・・・というように民族問題を真正面から取り上げたものです。最も音楽のクオリティが高かったのでこの動画をセレクトしましたが、なぜ映像がアニメの「犬夜叉」なのかはわかりません。シェール自身がこの「Half Breed」「Gypsy Tramps & Thieves」「Dark Lady」といったマイノリティを題材にした曲のメドレーを唄っている動画もありました。よろしければどうぞ・・・・。
Youtube動画:CHER Medley Half Breed Gypsy Tramps & Thieves Dark Lady
実は小生、インディアンと聞くと真っ先に思い浮かべるのは1910フルーツガム・カンパニーの「インディアン・ギバー(Indian Giver)」です。これは1969年の作品ですが、サウンド的にはインディアンの民族音楽的な雰囲気を纏ってはいるものの、真面目にインディアン問題を取り上げた楽曲ではなさそうです。歌詞は恋愛モノで、Indian Giverとは「与えたものを取り上げる奴」という意味で、「その気にさせておいて、去っていく恋しい人」というような感じのポップソングでした。まあついでですが、こんな感じです。
1910 Fruitgum Company - Indian Giver
でもこれらのインディアン関連の歌を歌っているのはいずれも白人で、グランド・ファンクのマーク・ファーナーのようにインディアンの血を引いているミュージシャンではありません。これまた何とも変な感じです。<レッド・パワー>の復権運動をうまく利用して商業的成功を狙った音楽業界が仕組んだもののような印象を強く受けます。なんか美しくない・・・・・。
次回はインディアンの血を引いているミュージシャンの音楽をちゃんと聴いてみたいと思います。
今日は病院に行って、帰宅後は桜見物がてらブラブラ歩いて定額給付金の申請書類を投函してきました。その足でカジュアル・シャツを1枚買って、ドラッグストアに寄って、食品スーパーで活タコの頭(刺身用)を買い、最後に地元のパン屋さんで食パンを買って帰ってきました。最近では一番歩いたかもしれないなあ・・・・。
さて、前回は70年代の洋楽でLed Zeppelinを紹介しましたが、今日はそのハード・ロック路線ではなくて、その前のGrand Funk Railroadからの派生です。グランド・ファンクのギター&ボーカルのマーク・ファーナーがインディアンの血を引いている・・・・ということで、そう言えば70年代前半はインディアンを題材にした曲が結構あったことを思い出しました。今日はそのあたりの楽曲をご紹介したいと思います。
まず最も有名で最も売れたのが、The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」でしょう。マーク・リンゼイとレイダースが唄うこの曲は1971年全米No.1の大ヒットとなりました。
1971 The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」
歌詞は、“例えネクタイをしてYシャツを着ていても、私の身体にはチェロキーの血が流れている。そしてチェロキーの世界はまた甦る・・・・”というような内容です。詳しくはDejavuさんのサイト Pops foreverをご覧ください。(その他の洋楽の名曲も目白押しですよ)
またThe Raiders 自身のライブ映像もありました。
Youtube動画:Paul Revere & The Raiders - Indian Reservation
さてアメリカ大陸の先住民族のインディアンですが、1960年代までは<American Indian>という表現が使われてきましたが、少数派集団の人権意識が高まった60年代末からは<Indian American(インディアン系アメリカ人)>または<First American(最初のアメリカ人)>となり、現在では<Native American>という表現に定着したとのことです。16世紀当時アメリカには200万から300万人の先住民族が暮らしていたといわれています。東海岸でアメリカ人が独立し西部開拓を進めるようになると、建前上は先住民各部族と条約を結んで土地を割譲させたが、そのうち条約を破って侵入したり、強制移住法を制定して追放したり、あるいは武力を使って虐殺するようになったのです。このため19世紀後半には人口が激減しました。しかし彼らは白人の支配化に入ることを頑なに拒みました。このため白人は先住民族を労働力として奴隷化することができず、やむを得ずアフリカから黒人を奴隷として連れてきたという説を目にしたことがあります。
それにしても70年代前半になぜインディアンを題材にした楽曲が多く公開されて支持されたのか?それはヒッピー文化(フラワー・ムーブメント)もかなり影響していたのではないかという気がします。1960年代に高まった黒人革命は他の少数派集団にも大きな影響を与え、1968年には<ブラック・パワー>に呼応して先住民族は<レッド・パワー>を叫び、復権運動を全国レベルで展開しました。この時期こそまさにヒッピー文化の絶頂期でもあって、反戦運動と共鳴するような形で白人優越主義に基づく社会体制への批判が急速に高まったのではないか・・・・・と推測します。
1970年の「ソルジャー・ブルー」を皮切りに、ハリウッド映画も先住民族に対する評価をそれまでの野蛮人的な立ち位置から一変させたと言われています。そして1975年、政府は先住民族の自己決定(Self Determination)の権利を認め、その権利は着実に回復されつつあるようですが、その一方で現在でも全米には286カ所の先住民族居住地(Indian Reservation)があり、約200万人の先住民族のほぼ3分の2がその中に住んでいるとのこと。そしてその居住地の多くは荒野にあり、住民の多くがいまなお貧困のうちに暮らしているというのが現実のようです。
「嘆きのインディアン」に続くヒットといえば、これでしょうか。
1973 CHER(シェール) 「Half Breed」
これは1973年のビルボードの年間ヒットチャートで20位にランキングされました。ちなみに一つ上の19位は、あのStevie Wonderの「You Are The Sunshine Of My Life」でありました。
歌詞の内容もチェロキー族の父と白人の母との間に生まれた自分が、父方母方それぞれから、社会からも軽蔑された・・・・というように民族問題を真正面から取り上げたものです。最も音楽のクオリティが高かったのでこの動画をセレクトしましたが、なぜ映像がアニメの「犬夜叉」なのかはわかりません。シェール自身がこの「Half Breed」「Gypsy Tramps & Thieves」「Dark Lady」といったマイノリティを題材にした曲のメドレーを唄っている動画もありました。よろしければどうぞ・・・・。
Youtube動画:CHER Medley Half Breed Gypsy Tramps & Thieves Dark Lady
実は小生、インディアンと聞くと真っ先に思い浮かべるのは1910フルーツガム・カンパニーの「インディアン・ギバー(Indian Giver)」です。これは1969年の作品ですが、サウンド的にはインディアンの民族音楽的な雰囲気を纏ってはいるものの、真面目にインディアン問題を取り上げた楽曲ではなさそうです。歌詞は恋愛モノで、Indian Giverとは「与えたものを取り上げる奴」という意味で、「その気にさせておいて、去っていく恋しい人」というような感じのポップソングでした。まあついでですが、こんな感じです。
1910 Fruitgum Company - Indian Giver
でもこれらのインディアン関連の歌を歌っているのはいずれも白人で、グランド・ファンクのマーク・ファーナーのようにインディアンの血を引いているミュージシャンではありません。これまた何とも変な感じです。<レッド・パワー>の復権運動をうまく利用して商業的成功を狙った音楽業界が仕組んだもののような印象を強く受けます。なんか美しくない・・・・・。
次回はインディアンの血を引いているミュージシャンの音楽をちゃんと聴いてみたいと思います。