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3月28日。晴れのち曇り。ずいぶん雪が溶けました。もうすぐ4月ですもんね。

今日夜、テレビで「ミューズの晩餐 My Song, My Life(テレビ東京系)」を見ました。ゲスト・ミュージシャンは女性ボーカリストの土岐麻子。土岐という苗字は珍しいなあ・・・と思いつつ見ていました。小生は土岐麻子というボーカリストについて全く知りませんで、今日初めてその顔を見、歌を聴いたと思っていたのですが、実は数多くのCMで彼女の歌やナレーションを耳にしていたんですな。ご存知の方は「そんなの常識じゃん・・・・。」ということなのかもしれませんが、小生はこの番組で初めてその事実を知ったわけです。

例えば、このCMは彼女が作曲し歌っているとのことのようです。

2008 Toki Asako 「How Beautiful」

そうです。ユニクロのCMに使われている曲です。この他にも日産「TEANA」のCMに使われたこんな曲もありました。

2008 土岐麻子 「Waltz for Debby (LIVE)」


そうです。あのビル・エバンスの名演で名高い「Waltz for Debby」に日本語の歌詞を当てて歌ったものですね。この他にも野村證券のCMジングル「まず野村に 聞いてみよう」も彼女が歌っているとのこと。まさに現在CM業界で引っ張りだこの女性ボーカリストだったんですね。

で、土岐という苗字で最初に小生が連想したのが、ジャズ・サックス・プレイヤーの土岐英史さんだったのですが、彼女は土岐さんの娘さんでした・・・・。1976年3月22日生れの33歳。幼少期から父親のライブにくっついていくなどして音楽に目覚め、自らもバンドを結成しギターやベースを担当するなどしてきたものの、自分の声が嫌でボーカルは絶対やらなかったそうです。その後早稲田大学第一文学部に進み、早稲田の軽音楽サークルで先輩から「うまくなくてもいいから、同じセンスのボーカルを探している」と口説かれ、初めて歌うようになったというから驚きです。

1997年にバンド「Cymbals」のリードシンガーとしてデビューするも2004年1月にCymbalsは解散し、2004年2月サックス奏者の父・土岐英史との共同プロデュース・アルバム『STANDARDS~土岐麻子ジャズを歌う~』でソロデビューを果たします。以来CM業界をはじめ、他のミュージシャンの作品に参加するなど多彩な活動を続けてきたとのこと。知りませんでした・・・・。

「ミューズの晩餐 My Song, My Life」の中で、そんな彼女のお気に入りの一曲は小さい頃からいつも家庭で聴いていたという、アース・ウインド&ファイアーの「セプテンバー」だということで、お披露目がありました。こんな感じでした。

2009 土岐麻子 「セプテンバー」


何と言うか癒し系の歌声なのかと思います。本人も「自分が目立つことよりも、聴いている人が主役で自分の音楽はその背景になれればいいと思ってやっています。でも単なるイージー・リスニングというわけでもないのですが・・・。」と言っていました。人となりも実にナチュラルで素敵だなあと思いました。

そんな彼女が辿ってきた経歴、特にデビューした「「Cymbals」」の音楽や、その後の傾向を見ると、どこかにあのピチカート・ファイブの匂いを感じてしまいます。逆に言えば、それほどまでにピチカート・ファイブというユニット(特に小西康陽)の与えた影響力というものがいかに大きかったのかを改めて思い知らされた感があります。

最後にもう1曲。ビッグバンド・ジャズと土岐麻子という組み合わせで・・・・・。

Your Voice (sings with 土岐麻子) 中塚武


中塚 武という作曲家・プロデューサーも早稲田の出身みたいですね。この人物に関しても全く知りませんでした。「どれだけ今を知らないんだ!」とお叱りを受けそうです。しかしこの楽曲などはなかなかイイ感じだと思います。ただこの曲などにもピチカート・ファイブのポップな匂いを感じてしまうのは小生だけでしょうかね? それにしても早稲田の軽音楽の実力はあなどれない・・・。後輩諸君は大したものです・・・・・。わしなんぞはどうしたらいいもんだか・・・・orz



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3月27日。このところ暖かいのか寒いのか分からないようなお天気が続いています。午前中などは晴れの時間が多く部屋は温室状態になるのですが、風は強く外に出ると結構寒かったりします。午後から夕方にかけては雲が多くなり時折雪も舞います。既に列島各地で桜満開の便りが届いている一方で、こちらでは雪の華が舞っています。春近しされどまだ遠し・・・・といった感じです。

さて、先日は和製ボサノバ・デュオとして期待された「ヒデとロザンナ」をご紹介しましたが、日本の歌謡曲界は60年代末から70年代初頭のこの時期、ある意味方向感覚を失っていたような感じがしないでもありません。テレビの普及がグループ・サウンズのブームをもたらす一方あっという間にそれも去り、ついで第一次フォークの台頭。根強い演歌を除けば、その他の歌謡曲といえば新たなポップスを模索していたような感があります。そのせいなのか外国人歌手がやけに多く登場します。ベッツィ&クリス、ゴールデン・ハーフであるとか、ヒデとロザンナ、欧陽菲菲 etc etc。そしてその後は南沙織・小柳ルミ子・天地真理といった女性アイドル路線に走っていきます。

そんな混沌とした中、実に奇妙なグループが登場し、あっという間に消えていきました。そのグループが<平田隆夫とセルスターズ>でした。

小生くらいの世代の人間ならおそらく覚えているだろうという曲が「ハチのムサシは死んだのさ」であります。実際に曲を歌えるかどうかは別として、「あー、あの曲ね」と答えるのではないかと思うほど、強烈なインパクトを持ったシュールでありながら妙に明るい曲でありました。で、本日ご紹介するのはその「ハチのムサシは死んだのさ(1972)」の前年に発表された「悪魔がにくい」であります。

1971 平田隆夫とセルスターズ 「悪魔がにくい」



1971年に発売された彼らのデビュー曲にあたるこの曲は、翌1972年の2月にはオリコン1位に輝き、その後ロングセラーを続け累計でミリオン・セラーとなりました。実に不思議な味わいを持った曲であり、グループでありました。セルスターズは明らかにグループサウンズではありませんでした。またフォーク・グループでもありませんでした。ピンキーとキラーズのようなポップ・グループともちょっと肌合いは違っているし、あえて言えば黒沢明とロスプリモスなどとは違う新しいタイプのムード歌謡グループだったのかもしれません。

しかし別の側面から見れば、自分たちで曲を作って演奏しているのだから、フォーク的でもありニュー・ミュージック的と言えないこともありません。ルックス的にはパンタロンにトンボ眼鏡やヒゲや長髪・・・。どちらかと言えばアメリカのフラワー・ムーブメントに乗っかったようなアンダーグラウンド的、ヒッピー的なキャラクターでありました。スタンス的にはフォークに近かったのかもしれませんが、楽曲自体はポップスど真ん中・・・・。

実はリーダーの平田隆夫氏が目指したものは、日本版セルジオ・メンデス&ブラジル66だったということらしいんです。小生も以前ご紹介しましたが、確かに当時セルジオ・メンデス&ブラジル66の音楽的先進性は目を見張るものがありました。多分平田隆夫氏はものすごい憧れがあったのではないかと推測します。その気持ちも音楽人としては充分理解できるような気もします。

実際グループのメンバー構成は全くセルジオ・メンデス&ブラジル66と同じです。女性のツインボーカルにバックが男性3人。リーダーはセルジオ・メンデスでピアノ。セルスターズはセルジオ・メンデスの位置に平田隆夫氏が入っているという構図です。そして平田隆夫氏はセルジオ・メンデスと全く同じ形のヒゲをはやしているんですな。それほどまでにセルジオ・メンデスに心酔していたのかな・・・・と想像します。

しかし類似点はそこまでで、姿かたちで言えばメインになる女性のツインボーカルからして全く別物でありました。丸メガネにおでこを出した三つ編み風のヘアスタイルにカーボーイハットといったスタイルの「みみん あい」さん。もう一人の女性ボーカルの「村部レミ」さんもどう見てもラテン(ボサノバ)的なイメージとは重なりません。それどころかその真逆・・・・。これでセルジオ・メンデス&ブラジル66を真似たと言われても俄かには信じられない・・・・。そんな点も全く不可思議であります。

では、曲のほうはどうだったのか?というと、セルスターズはセルメンの代名詞とも云える「マシュケ・ナダ」をカバー、その他のセルメン的ポップス曲もカバーしているらしいのですが、それだけでなく他のスタンダード・ナンバーや「レット・イット・ビー」、更には「ある愛の詩」などもカバーしているんですな。もうこのあたりをみても何を目指しているのかわからなくなってきます。

そして実際の彼等の出すサウンドですが、確かにコンガやラテン・パーカッションをリズムに取り入れてはいるものの、メロディラインが実に日本歌謡曲的でそれが強く前面に出ているためトータルとしてラテンぽさが感じられないし、ましてやボサノバ的な繊細なモダンさなどとは全く別物・・・・。逆に言えばそれほどまでにオリジナリティ・個性が強烈なんです。それはそれで実に素晴らしいことなのですが、平田隆夫氏ご本人にとっては満足できるものではなかったのかもしれませんね。一生懸命洗練されたセルメン的な音楽を志向しながらも、自らの持っている日本的な音楽的ルーツからどうしても抜け切ることが出来なかったというディレンマがあったのかもしれません。だからこそ、これだけ高いオリジナリティと演奏技術があったにもかかわらず短命に終わったのかもしれません。

でもやはり優れた音楽は支持される・・・・。この「悪魔がにくい」が100万枚を越えるミリオン・セラーになったのも、間違いなくその音楽が多くの人にしっかりと評価された結果であると思ったオヤジでありました。

3月24日。曇り時々晴れ時々雪。今週はまた寒さが戻ってきました。と言っても本格的な冬への逆戻りというものではなく、まさに三寒四温という感じです。でもついこの間までは本当に暖かく、どんどん雪が溶けていたのですが、ここに来て昨日も今日も雪が降るくらいに本当に寒いです。

WBCは本当に劇的な幕切れで優勝。良かったですね。暗い日本社会に久々に明るいニュースでした。それにしても独占放映権を獲得したTBSの実況中継のアナウンサー(林 正浩)は本当にヒドイものでした。一生懸命になって熱くなるのはわかりますが、何と言っても選手の名前を間違えすぎです。岩村と岩隈がゴッチャになったり、今出ている選手の名前すらしっかり把握できないまま思いっきり間違えてアナウンスし、解説の槇原・清原・佐々木に訂正意される始末。当然相手チームの選手などは、選手交代があった後などは9割方間違っていました。記録の紹介などでも間違い連発ですし、テレビ画面を見ていれば素人にもわかるインコース・アウトコースについても正反対のことをしばしば言っていました。こんなアナウンサーがスポーツ実況のプロだというのですから、TBSもお粗末なものです。せっかくの大試合、もう少し放送する側もしっかり勉強して正確に視聴者に情報を提供していただかないと・・・・。あれほどまでに選手名を間違えるなどのミスを聞かされ続けていますと、見ているほうもイライラしてきてせっかくの試合の醍醐味を確実に減じてしまいます。選手の活躍もかすんでしまうほどの実況アナの体たらく。この点に関してはTBSの猛省を求めたい気持ちのオヤジであります。

またしても前置きが長くなってしまいましたが、今日も昔の日本の歌謡曲をご紹介したいと思います。60年代末から70年代にかけて歌謡曲界にポップな感覚をもたらしてくれたこのデュオ。そう「ヒデとロザンナ」であります。正直言って小生が初めて目にしたイタリア人女性はこのロザンナだったように思います。

この頃くらいから外国人の日本への進出というのが顕著になってきましたが、そんな中でもドサ回りの営業として日本を訪れるのではなく、日本を活動の本格的な舞台にするような外国人タレントが増えてきます。以前ご紹介したダニエル・ビダルなどもその草分け的な存在でしたが、日本人とのコンビで活躍するというケースはほとんど無く、その意味では「ヒデとロザンナ」という男女のデュオはとても珍しく新鮮なものでした。

今日ご紹介するのは、1969年発売の彼等の2枚目のシングル「粋なうわさ」と、1977年発売の19枚目のシングル「さらば愛の季節」であります。

1969 ヒデとロザンナ 「粋なうわさ」


ヒデとロザンナと言えば、大ヒットしたデビュー曲の「愛の奇跡」であり、1970年の大ヒットでその年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした「愛は傷つきやすく」を誰もが思い浮かべるところでしょうが、ここではちょっと見過ごされがちな曲をセレクトしてみました。

「愛の奇跡」は作詞:中村小太郎/作曲:田辺信一のコンビによる作品でしたが、どちらかというとイタリアン・カンツオーネ的なイメージで少しばかり大袈裟な感じのする曲でした。そしてその次がこの「粋なうわさ」なのですが、作詞:橋本淳/作曲:筒美京平のコンビに代わります。まさに筒美京平ワールドと言いますか、タイトル通り小粋でファッショナブルな楽曲傾向になります。そしてこの軽妙でモダンなフィーリングこそが「ヒデとロザンナ」には実にピッタリくるように思います。歌い手が実に自然に気持ち良く歌っているのが聴き手の私たちにも伝わってきます。

同じような傾向の楽曲が1977の「さらば愛の季節」です。(埋め込み不可のため下記リンクをクリック^^)

Youtube動画:1977 ヒデとロザンナ 「さらば愛の季節」  作詞:橋本淳/作曲:東海林修

こういう軽い感じが自然なのは、ヒデこと出門英がそもそもボサノバ畑出身ということもあるかもしれません。「ヒデとロザンナ」の前にはボサノヴァ・デュオ「ユキとヒデ」(何とあの渡辺貞夫のプロデュース)として活動していたそうです。そして1968年にイタリア出身の少女ロザンナ・ザンボンと「ヒデとロザンナ」を結成して、デビュー曲「愛の奇跡」でブレイク、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たしたわけです。

二人は1975年2月の結婚を機に、それまでのコロムビア・レコードからワーナー・レコードに移籍します。この「さらば愛の季節」は結婚後の楽曲ということになりますかね。作曲は東海林修氏ですが、どこか筒美京平氏をしのばせる曲調です。

実は筒美京平氏は和製ボサノバに積極的だったようでして、ボサノバ畑出身のヒデに目をつけ「ヒデとロザンナ」に自ら積極的にアプローチしたということのようです。それが2枚目のシングル「粋なうわさ」のB面となった「愛のひととき」という楽曲で、和製ボサノバの隠れた名曲とされているようです。残念ながらこの楽曲はどこにもみつかりませんでした。ということでその代わりではありませんが、3枚目のシングル「ローマの奇跡」のB面に収められた「真夜中のボサノバ」を聴いてみてください。(作詞:橋本淳/作曲:筒美京平)

Youtube動画:1969 ヒデとロザンナ 「真夜中のボサノバ」

実にオシャレですよね。1960年代とはちょっと思えません。ただサビ部分の冒頭はボサノバというよりはまさに筒美京平ワールドと言う感じですね^^。

でもその後なかなかこういう感じの楽曲をサラッと歌えるグループは出てきていないように思います。セールス的にはパッとせず、ある意味実験的なチャレンジだったのかもしれませんが、40年経っても古さを感じさせず充分魅力的です。そんな出門英さんが1990年6月17日、47歳の若さで結腸ガンで亡くなられたことは残念な限りです。枯れた感じの和製ボサノバを聴いてみたかったような気がします。



3月20日。曇り時々雪。WBC4度目の日韓戦でした。初回から韓国に先制されまたしても重苦しい展開かと思いましたが、すぐその後ベイスターズの内川選手の目の覚めるようなホームランが出て同点。これで何とかいけるかな・・・・と思いました。マー君も大事なところで同点ホームランを浴びてしまいましたが、あの1球は甘く行きましたね。それを見逃さず仕留めた韓国選手は立派でした。

その後の青木から始まった日本の攻撃をあるテレビのスポーツ番組では「風林火山攻撃」と言っていましたが、なかなか言いえて妙でありました。あの青木のセーフティ・バントはまさしく疾(はや)きこと風の如し。、ホームランを打った内川に代わって打席に立った稲葉は、徐(しず)かなること林の如く、一撃でヒット&ランを確実に決めます。ノーアウト1塁3塁。ここで韓国はあの日本キラーの左腕キム・ガンヒョンを投入。これに対して原監督はあえて左の小笠原を代打に送ります。サムライ小笠原は粘りに粘って侵(おか)し掠(かす)めること火の如く右前へタイムリー、日本が3-2と均衡を破り勝ち越します。ノーアウト1塁2塁から6番・亀井がキッチリと送りバントを決めワンアウト2塁3塁。ここで7番・岩村はどっしりと構えて動かざること山の如し。最後にはボールを捉えピッチャー返し。この打球が前進守備の内野を抜けセンターに。それがセンターのエラーを誘い2塁ランナーも生還し、更に2点追加。一挙に5-2と突き放しほぼ試合を決めたのでありました・・・・。それぞれの選手のイメージと実にうまくリンクしていました。風(青木)・林(稲葉)・火(小笠原)・山(岩村)。いいものを見せてもらいました^^。

さてと、話はまた昔の音楽に戻ります。なかなか年代が進んでいかず、逆に遡っている感じがしないでもありませんが、まあお許しください。本日のご紹介は、<モコ・ビーバー・オリーブ>であります。

<モコ・ビーバー・オリーブ>とは1967年にニッポン放送で始まったラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」の初代女性パーソナリティの女性3人組みであります。このパーソナリティは<パンチ・ガール>と呼ばれていました。番組の提供は、当時ニキビ面の若者文化をリードしていたあの「平凡パンチ」。

このラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」は平日夜11時代の15分番組でしたが、時々ゲストを交え、時にはセクシーな雰囲気を醸し出しながらおしゃべりを展開するという形の番組で、当時中学生になりたての小生などにとっては、お姉さまたちのちょっと大人な世界に触れることの出来る実に蠱惑的なひと時でありました。Youtubeをうろちょろしているうちにこの曲を見つけて。ラジオを寝床に持ち込んで布団を頭からかぶって聴いていたあの頃を思い出しました。

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<モコ・ビーバー・オリーブ>は全員オーディションで選ばれたとのこと。モコこと高橋基子は長女的存在の帰国子女で番組の仕切り役でした。ビーバーこと川口まさみはananの現役モデルで男勝りの竹を割ったような性格の女の子でした。オリーブことシリア・ポールは実にマイペースでおっとり、ホンワカ(今で言う天然系?)した女の子で、この後歌手としてアルバムを発表しました。

60年代ファッションの似合うお姉さまたちのそれぞれのキャラクターが実に際立っており、リスナーへの悩み相談などは実にユニークでだったような記憶があります。リスナーに感情移入してイキリ立つビーバー、それを嗜めながらも番組を進めるモコ、我関せずというような感じのオリーブ・・・・。何とも奇妙なかしまし娘でありました。

右のレコードジャケットのほうが顔が分かりやすいかもしれません。一番奥の黒い服のショートカットのお姉さんがモコ。左の髪が長く赤い服のイエイエガール風がビーバー。一番手前のピンクの服の清楚なお嬢さん風がオリーブです。今日は懐かしいこの2曲をご紹介します。

1969 モコ・ビーバー・オリーブ 「海の底でうたう唄」


「海の底でうたう唄」は、当時サンケイ新聞が募集した 「サンケイ・ヤング・ヒット・チューン」で優勝した曲です。作詞:尾崎きよみ 作曲:関口真人 編曲:青木望。

1969 モコ・ビーバー・オリーブ 「わすれたいのに」


原曲は1961年のパリス・シスターズ(The Paris Sisters)によるヒット曲で、ボビー・ヴィントンもカバーした「I Love How You Love Me」 作詞・作曲:B.Mann & L.Kolber 訳詩:奥山伸

何ともホンワカしたいい気分にさせてくれます。ファッションだけでなく、まさに60年代の美しいポップな世界を思い出させてくれるような感じがしますね。

何と当時の番組のオープニング・テーマもありました。更に懐かしい香りがします。何ともモダン・レトロなフィーリングで溢れています。それは何と言っても番組の音楽を監修していた、あの故三保敬太郎氏のセンスだと思います。三保敬太郎氏といえば、かの「11PM」のテーマを作曲したジャズ・ミュージシャンで、そのジャズっぽいフィーリングは当時群を抜いていような気がします。早逝が何とも惜しまれます。よろしければこちらもどうぞ・・・・。

Youtube動画:ザ・パンチ・パンチ・パンチ

3月19日。曇りのち時々雨。今日はWBCのキューバ戦でしたね。岩隈投手も杉内投手も抜群の内容でした。圧巻の投手力による勝利で準決勝進出、よかったです。

それ以上に大きなニュースがありました。それは公的資金17兆円の支援を受けているアメリカ最大の保険会社AIGグループが幹部社員に160億円ものボーナスを支払ったとのこと・・・・。それを事前にFRBや財務省にも報告してあったのに、FRB・財務省からは何らの指導もなかったこと・・・・。公聴会でAIGの会長はこう弁明していました。「彼らが複雑なCDS(クレジット・デフォルト・スワップ:一種の保証債務)の詳細を熟知しており、ボーナスを払わなければ彼らは辞めてしまう。彼らが辞めてしまっては会社が立ち行かない・・・。だからボーナスを支払わざるを得ない・・・・。」

まあ、何とも言葉がありません。どこかのニュース番組で言っていましたが、「世界を破滅させる爆弾を作り出した奴がいる。信管のはずし方は彼らしか知らない。彼らは金を要求している。払わなければ爆弾が爆発してしまう・・・・。」こんな話ではないかと・・・。金融テクノロジーはここまで行ってしまったんですねえ。もうならず者の開き直りです。まるで北朝鮮のようです。しかし今の法律ではこんなならず者を取り締まることができないため、急遽奴らに支払われたボーナスに対して90%の課税をする法案が検討されているとのこと。小生などにはシラーっとしてボーナスを受け取り、なおかつ辞めていくエリート社員の人間性がちょっと理解できません。そんなことをしてまともにこの先生きていけるものなのでしょうかね?

まあそれはそれとして、今夜真夜中にテレビを見ていたら、NHKで「沢田研二ライブ 人間60年ジュリー祭りIN東京ドーム」というドキュメンタリー的音楽番組が放送されていました。先日沢田研二の曲を採り上げたこともあって、何か縁があるなあと思いつつ見たんですが、最初はアイドル・ポップ(ロック)・スターが年をとって昔の曲を歌うのは厳しいものなのだろうなあ・・・と思っていました。時間と言うのは手厳しいもので、正直容姿は昔の面影もなく、我々一般ピーポーとほとんど変わらなくなっていました。ましてやそんな体型で踊りを踊りながら歌うとなれば、もうあっという間に息が上がってしまうんじゃないか・・・・と。

まして今回のこのコンサートは7時間にわたってザ・タイガース時代からソロになって現在に至るまでに発表した全80曲を全部歌いきる・・・という途方も無いものでした。この番組は1時間にも満たないダイジェストでしたが、還暦を過ぎたオヤジが7時間歌いっ放しなんて本当にできるのか?と思いつつ見ていたのですが、最後の1曲まで沢田研二はしっかり歌いきりました。容姿は衰えていました。声も高音は厳しいところもありました。しかし音程は最後までしっかりと安定していて、声量も衰えることはありませんでした。それは見事でした。超一流のボーカリストとしての力をまざまざと見せてくれました。こんな沢田研二の前では、あの桑田圭祐も真っ青でしょう。ましてや腹の底から歌うことも出来ないスマップなどは足許にも及びません。

故河島英五さん作詞作曲の「いくつかの場面」という曲を歌いましたが、本当に涙を流しつつそれでもしっかりと歌いきりました。1975年の作品ということで、当時から涙を湛えて歌っていたようですが、今回は何が感極まらせたのかと想像してしまいました。歌詞に自分の人生が重なって見えたのでしょうか? 若くして亡くなった河島英五さんのことを思い出したのでしょうか・・・・? 正直小生はこの曲を知りませんでしたが、歌詞の内容が実に味わい深く、今の小生自身の気持ちと相通ずるところもあって、小生もウルッとしてしまいました。よろしければ聴いてみてください。

1975 沢田研二 「いくつかの場面」


番組の後半には、沢田研二自身が3万人の観客に向かって感謝のメッセージを送っていました。このメッセージがまた素敵でした。「夢と現実」「日常と非日常」について大スターが静かに語っています。そしてそのメッセージに続いて歌われたのが「時の過ぎ行くままに」。還暦になって歌い、我々が50を過ぎて聴くこの「時の過ぎ行くままに」も、また実に深い味わいがありました。

1975 沢田研二 「時の過ぎ行くままに」

最初は年老いたロック・スターは哀しいだけだと思っていました。しかしそんな単純な話ではありませんでした。沢田研二は歌謡曲という日本のポップスをしっかり支えた偉大なシンガーだったと改めて思いました。サウンド重視の曲ではなく、しっかりと中味のある歌詞を伴った素晴らしい楽曲を歌ってきたからこそ、還暦になっても充分歌えるし、聴く者を感動させることができるのだなあ・・・・・と。

ちょっと太めになったジュリーは今では容姿第一のアイドルではありませんが、そこにはこの日本の一時代をしっかりと背中に背負った人間の風格のようなものを感じました。まさしくスターだと思いました。

それに比べて、どうして歴代首相にこのような風格を感じることが出来ないのかな・・・・?
それは彼らには美しさを感じることが出来ないからかもしれないと思ったオヤジでありました。