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11月30日 曇りのち午後遅くから雪。暖気はそろそろ去っていき、また寒さがもどってきたようです。
今日の午後は例によって「たかじんの そこまで言って委員会」を見るともなしに見ながら、ダラダラとつまらない本を読んでいたのですが、午後3時くらいから急に暗くなったかなと思って、ふと窓の外を見ると、一面真っ白になっていました。

で、本日のデタラメ五・七・五
「静寂に 気付けば一面 銀世界」


さてさて本日もいきます60年代ポップス・非英語編第七弾(いやあ結構引っ張ってますなあ・・・・)。
今回もイタリアン(カンツォーネ)・ポップスで、1966 Wilma Goich 「In Un Fiore 邦題:花のささやき」

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ウィルマ・ゴイクは、1945年10月16日に北イタリアのサヴォナ近郊のカイロ・モンテノッテ生まれ。1963年9月スペインのバルセロナで開かれた地中海フェスティヴァルにエミリオ・ペリコーリをパートナーとして、「愛のめざめ」を歌い優勝します。この曲が日本でのデビュー曲になりました。そして1965年には「花咲く丘に涙して」でサンレモ音楽祭で入賞。翌1966年の同音楽祭でも「花のささやき」で入賞し実力を確固たるものとします。

彼女の曲は日本でもヒットし、1965年にはボビー・ソロと一緒に、1967年にはヤマハの世界歌謡祭出場で来日しています。その澄んだ声と穏やかで柔らかな可愛らしい唄い方で人気があったようですね。

まずは聴いてやってください。

1966 Wilma Goich 「In Un Fiore 花のささやき」
これまた再生ボリュームが大きめなので、音量にはご注意ください。




いやあ いきなり最初のイントロがギリシャ風というかトルコ風というか・・・・。アングロサクソン的ではありません。そして基本的なリズムが、「ドン|チャチャ|ドン|チャ || ドン|チャチャ|ドン|チャ」 やっぱり時代を感じさせますなあ。

さてウィルマ・ゴイク嬢、その後1967年もサン・レモ音楽祭で「ささやく瞳」で入賞しました。また同じ1967年には、夏のディスク・フェスティヴァルで「夜の想い」が3位に入賞し、大ヒットしています。そしてこの1967年にエドアルド・ヴィアネロという男性歌手と結婚。そして1969年にサン・レモ音楽祭で歌った「パーチ・パーチ・パーチ」を最後に引退しています。

この引退は出産のためでした。その後ウィルマは<ヴィアネラ>としてカムバックし、夫とデュエットで歌手活動を再開したのですが、このコンビもしばらく続いただけで離婚のため解消し、再びソロ歌手として再出発したようです。ただその後は日本でヨーロピアン・ポップスへの関心がガクンと落ち込んでしまったこともあって、情報もほとんどなくなってしまったようです。

そういう意味で、彼女の活躍の程は短期間でしたが、カンツォーネ・ファンばかりでなく、オールディーズ・ファンを中心にいまだ日本では根強い人気があるようですね。

小生は正直リアルタイムで聴いた記憶がありません。この曲もまたYoutubeで昔の曲を探していたときに、「ん? どこかで聴いたことある・・・・」ということでピックアップしたものです。という次第でこの曲から思い起こされる直接的なエピソードは残念ながら浮かんできません。

ただこの時期(60年代いっぱい)くらいまで、サン・レモ音楽祭やユーロビジョン・ソング・コンテストなどポピュラー音楽のコンテストが花盛りで、そこでお披露目された曲がどんどん日本に入ってきていたという印象があります。その発想の延長で、日本でもヤマハが世界歌謡祭を開催するようになり、さらにポピュラー・ソング・コンテスト(通称ポプコン)へと繋がっていったんですねえ。

そしてこれらのコンテストに入賞し電波に乗ることが新人ミュージシャンがメジャーデ・ビューを果たすひとつの登竜門になっていきました。その一方でもっと歌謡曲的なるものとして、あの欽ちゃんのオーディション番組「スター誕生」があったんですな。ある意味素人が音楽の世界に入っていきやすい環境がだんだん整ってきた時代だったのかもしれませんね。


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11月29日 晴れのち曇り夜から雨。今日も暖かい一日でした。数日前までの厳しい寒さから少しだけ解放されてうれしいのですが、残念ながら小生自身は終日軽い頭痛で鬱陶しい気分で過ごしました。
こんな日はなかなかブログの記事も満足に書けないので、以前書き溜めておいたものに少しだけ手を加えて書いています。お許しください。


で、本日のデタラメ五・七・五
「暖かい 雨で溶け出す 陰ごおり」

これは昨日のデタラメ五・七・五「お陽さまの 恵み届かぬ 陰ごおり」と対になっています。

昨日の句は、「あの強い熱エネルギーの放射で、お陽さまの光が充分届くところの氷は溶けて乾いているのに、日陰になってその光を受けられない場所の氷は凍ったまま。」ひいては、「順風な環境にある人にはいろいろな恵みが届くけれども、なかなか運命的に恵まれない人には、その光も届かず、厳しい環境から抜け出せない・・・・。」という諦観のような意味を込めていたのですが、しかし今夜の雨を見て、「うん? こんなこともあるのか・・・・?」と思いました。

それは、太陽の光は直接届かなくても、そのエネルギーで空気が暖まり、お日様が姿を隠した夜中に降る雨が、日陰の氷も溶かしてくれる・・・・ということです。日陰の氷もある条件がそろえば変化できるということです。どんな状況でも全く希望が無いということではない・・・・ということですかな。

よくあるたとえ話に「北風と太陽」がありますよね。寓話の中身については皆様ご存知でしょうから触れませんが、ただこの話から受ける印象は、<北風が悪で太陽が善>という白か黒か的な感じですな。それと同様にお天気についても、<晴れが良くて雨は良くない>というどこか偏った決め付けを自分の頭の中でしていたように思います。確かに雨の日は憂鬱になるし、小生の場合体調も優れないことが多いので、ついつい雨や曇りを悪者にしがちなのですが、それは大きな間違いだということにやっと気付いたということです。

それともう一つは、<どんなもの(状況)にも、それ相応の役割が与えられているのではないか?>ということです。晴れには晴れの、雨には雨の役割がある。あったりまえのことなんですが、ついついそれを見失っていたようです。それと同様に「こんな自分にも何か役割があるのではないか・・・・・。」
それがどんな役割なのかを見つけ出すのは難儀な道のりなのでしょうが、何の役割も無いということに比べれば、どこかに希望のようなものがあるような気がして、少しだけ勇気づけられたような気がしました。

前振りが長くなっちゃいました。さてさて本日もいきますよ、60年代ポップス・非英語編。さてと今度はフランスからアルプスを越えてイタリアへと移動します。フレンチ・ポップスならぬイタリアン(カンツォーネ)・ポップスというところでしょうか。

その第六弾はこれ!1969 Gigliola Cinquetti 「La pioggia」(ジリオラ・チンクエッティ 雨)

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本当はもうちょっと古い別の曲を考えていたのですが、今日は「雨」に教えられたということもあって、あえてこの曲をセレクトしてみました。

いつもお世話になっているS.Hideさんの「なつメロ英語オールディーズ」にもこの曲の訳詩がありました。そしてその解説でS.Hideさんはこのようにおっしゃっています。

「雨をテーマにした曲は本当にたくさんありますね。どの曲も聞いてみると音楽でありながら雨を感じさせる(カリフォルニアの青い空をのぞき)のはさすがプロの作品。 またそれぞれの雨の降り方が違って聞こえるのも楽しいですが, このようなライバル(?)の多い中でズバリ『雨』と言い切ってしまった強気のタイトルのこの曲の場合も, 私にはイタリアらしくカラフルな傘がいくつも開いているようなイメージが沸く雨の歌の傑作に思えます。」

なかなか素敵な解説ですな。小生は歌詞の意味が分かっていないので、イメージだけですが、「ちょっとやそっとの雨なんぞ、何するものぞ・・・・」という感じを受けました。「雨もまたたのし・・・・。」ってところでしょうか。それにしても、<カラフルな傘がいくつも開いているようなイメージ>とは、まさにイエイエの60年代のヨーロッパを感じさせますねえ。ニコッ♪

といことでお聴きください。

1969 Gigliola Cinquetti 「La pioggia 邦題:雨」


1969年のサン・レモ音楽祭の映像をセレクトしてみました。

音質のいいレコード音源でお聴きいただくにはこちらをどうぞ。

Youtube動画 : 雨 ジリオラ・チンクェッティ

ジリオラ・チンクエッティは1947年12月20日イタリア北部ベローナ生まれ。 1963年のカストロカーロ新人コンテストで優勝し, 翌年16歳のときにサン・レモ音楽祭で『夢見る想い No Ho L'eta 』を歌い優勝。 さらにユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 に同じ曲で臨み、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たして一躍有名歌手の仲間入りに。さらに1966年18歳のときに『愛は限りなく』でサン・レモ音楽祭2回目の優勝。 『雨』は1969年のサン・レモ音楽祭の入賞曲(優勝曲はボビー・ソロの『涙のさだめ Zingara 』) でした。

当時、カンツォーネ・ブームの日本では、ボビー・ソロと共に本国イタリアを凌ぐ人気となり、日本語の録音も残しているようです。また、伊東ゆかり、弘田三枝子などの日本人歌手が彼女の曲をカヴァーしています。1979年に結婚、そして二人の男の子の育児に専念するため「太陽のとびら」を置き土産に引退してローマに転居。その後、1989年のサン・レモ音楽祭への出場を契機に完全復帰し、1990年にはデビュー25周年ツアーを欧州で行ったそうです。1991年、復帰後初のアルバム「Tuttintorno」を発売。以後も1993年に来日コンサート開催、95年「Giovane vecchio cuore」でのサン・レモ出場など、現在でも積極的に活動していらっしゃるようです。

彼女にとっては運命の鍵は何と言っても「サン・レモ音楽祭」なんでしょうね。全てはそこから始まって、そこで育っていった・・・・。

もう少しだけ、ヨーロピアン・ポップスいきますよ^^。グー!



11月28日。曇り。今日は予定通り暖房工事屋さんが来まして、我が家の暖房をチェックしていってくれました。結果は特に問題なし。居間が寒いのは、居間の広さに対して設置されている暖房機器の能力が基本的に弱いためだといことがわかりました。

ただ、お日様が差し込めば温室状態になる居間なので、ある意味それを想定した暖房能力の設定だったのかもしれません。当面は寒いときにはホットカーペットを補助暖房として使うことにしようかな・・・・。

あれ?11月28日って、ひょっとして高校時代に付き合っていた女の子の誕生日だったんじゃ・・・・?間違ってるかな? 誕生日を何とか祝ってやりたくて、いろいろなプランを考えたりもしましたが、そこはカネの無い高校生のこと、実際は何も出来ず、結局ススキノに一人暮らししていた友人の部屋に押しかけて簡単な食事をしたんだっけ・・・・・。いやあ何とも懐かしい思い出ですな。わほー

で、本日のデタラメ五・七・五
「お陽様の 恵み届かぬ 陰ごおり」


さてさて、本日も60年代ポップス・非英語編。その第五弾はこれ!Francoise Hardy 「Comment Te Dire Adieu」(フランソワーズ・アルディ 邦題:「さよならを教えて」)

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実はこの曲をリアルタイムで聴いた記憶はほとんどありません。たまたまYoutubeでいろいろと昔の曲を探していたとき、「うん? どこかで聴いたことがある・・・・」と思い、そのあとずっと耳から離れなくなってしまった曲の一つでした。それで調べてみたら1968年発表の曲だった・・・・と。

でも、頭の片隅にきっとこの曲のイメージが残っていたんでしょうね。聴いた途端に「ああ、懐かしい・・・」という感覚がありました。

という次第で、これは只今現在の小生のお気に入りです。以前ご紹介したリンジー・ディポールの「Sugar Me」のような楽曲です。どうぞ聴いてやってください。

1968 Francoise Hardy 「Comment Te Dire Adieu 邦題:さよならを教えて」



それにしても個性的な曲です。イントロのあの極端な単純さがまた逆にお洒落で、いかにもフランス的で、その独特な世界に一気に引き込まれてしまいます。あと、歌詞の意味は良く分からないものの、いかにも恋人に語りかけるような歌い方がさりげなくできる歌手は、そうそう転がっているものではありません。

またまたS.Hideさんのサイト「なつかし英語オールディーズ」にこの曲の訳詩(こちら)がありました。前回ご紹介した「夢見るシャンソン人形」の訳詩(こちら)も掲載されています。

S.Hideさんは、フランソワーズ・アルディかなりお気に入りのようです。と言いますか、フレンチ・ポップスやヨーロピアン・ポップス(特に女性)がかなりお好みのようです。フランソワーズ・アルディについて日本語のサイトでは一番詳しく様々なエピソードが紹介されています。とても楽しい記事ですので、こちらも是非ご覧になることをオススメします。「なつかし英語オールディーズ:さよならを教えて(フランソワーズ・アルディ)」

実はこの曲「さよならを教えて」はオリジナルではなくて、 Jack Gold 作曲  Arnold Goland作詞の作品でヴェラ・リン(Vera Lynn)が1954年に歌った It Hurts To Say Goodbye のカバーだということです。そしてフランス語の歌詞を作詞したのが、あの「夢見るシャンソン人形」、「アイドルを探せ」でお馴染みの大御所セルジュ・ゲインズブール。アーノルド・ゴーランドの陳腐で古臭い詞を Pyrex (パイレックス)とか Kleenex (クリネックス)なんていう固有名詞を散りばめたオシャレで小粋な歌詞に見事に作り変えたものだそうです。

あ、そうそう。皆さんはもう既にご存知だったのかもしれませんが、あの松任谷(荒井)由実の「私のフランソワーズ」は、まさしくフランソワーズ・アルディを歌ったものだということだそうです。

全く知らなかった・・・・・。


11月27日。今日は天気予報どおり暖かくなりました。で、予想通り道路の氷が溶けて、今まさに再氷結しています。今までのデコボコの氷が真平らなアイスバーンになります。明日の朝は大変だ・・・・。

昨日までは本当に寒くて、家の中がなかなか暖まらず、ひょっとしたら暖房に問題があるのかな?と思って今日暖房工事屋さんに電話してチェックをお願いしました。実際来てくれるには数日かかるだろう
と思っていたら、夜になって「明日行きます・・・・。」との電話。それからあわてて家中の掃除です。いかに普段からマメに掃除をしていないかっちゅうことですな。jumee☆stretchingL2

ところが今日は家の中が暖かいんですな。掃除をしてたら汗だくになりました。ということは、暖房には異常がない・・・・。逆に言えばそれほど昨日までの寒気は凄まじかったってことなのかもしれません。

で、本日のデタラメ五・七・五
「空振りも もう慣れっこと カラ元気」


さてと、まだまだいきますよ^^。本日も60年代ポップス・非英語編。その第四弾はこれ!

MARJORIE NOEL 「Dans le Meme Wagon 邦題:そよ風にのって」

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マージョリー・ノエルは芸名です。本名はフランソワーズ・ニヴォ(FRANCOISE NIVOT)。
1945年12月25日、パリのブッテ・ショーモンの国立放送協会のテレビ・スタジオ傍にあるカフェを経営する両親の元に生まれます。彼女は店の人気者で、ジェニーヌ・ヴェルティーという作曲家の目に止まり、歌手としてデビューすることを薦められます。

もうおわかりのとおり、「ノエル」という芸名は彼女がクリスマス生まれだったからです。そういえば世間ではそろそろクリスマスムードなんでしょうねえ・・・・・・。

1964年に「Ma premiere peine 恋する夜/Ma premiere chanson d'amour 初恋の唄」でレコードデビュー。ダリダの前座とかジャック・ブレルなどと巡業をしているうちに実力が認められて、翌1965年ナポリで開催されたあの「ユーロヴィジョン・コンテスト」にモンテカルロ代表として出場し、「慕情の季節(Va dire a l'amour)」で9位。

日本では、1965年12月「そよ風にのって」がヒットし、続いて1966年3月の「春のときめき」もヒットするなど人気となり、1966年7月には来日もしています。が、それ以降の活躍はほとんど聞こえてきません。他のユーロヴィジョン出身の歌手は今でも現役を続けている大御所が多いようですが、彼女はどうなったんでしょうね・・・・・・?

まずはお聴きいただきましょう。

1965 MARJORIE NOEL 「Dans le Meme Wagon そよ風にのって」



ちょっと聴いただけでもお分かりのとおり、彼女の歌(楽曲は)当時のフレンチ・ポップスからすると、ややアレンジが古っぽい感じがします。いわゆるロック的要素が薄く、伝統的なシャンソンのほうに重心が置かれているような感じです。歌い方も上品で穏やか・・・・。時代がロックに向かう中ではちょっと優等生的すぎたのかもしれません。

歌詞の内容は、列車に乗り合わせた男女が一目惚れして、この列車が目的地に着く頃には恋に落ちているでしょう・・・・という感じのようです。

曲名の「Dans le Meme Wagon」とは、そよ風に乗るのではなくて、直訳すれば、「同じ車両にて・・・・」ということですな。

それにしても1960年代というのは、まだまだフランス文化が世界に幅を利かせていたんだなあ・・・と痛感します。映画にしても音楽にしても。

映画では監督にフランソワ・トリュフォーやクロード・ルルーシュ、ジャン・リュック・ゴダール、ルイ・マル、ルネ・クレマンにロジェ・ヴァディムetc etc。俳優陣ではアラン・ドロンにジャン・ポール・ベルモンド、リノ・ヴェンチュラにモーリス・ロネ、若手ではルノー・ベルレーetc etc。そして華麗な女優陣ではジャンヌ・モローにブリジット・バルドー、アンナ・カリーナにカトリーヌ・ドヌーヴ、ナタリー・ドロンetc etc。

小生がジャズに目覚めるきっかけとなった俗に言うシネ・ジャズ「死刑台のエレベーター」もルイ・マル監督、主演モーリス・ロネ、 ジャンヌ・モロー、助演リノ・ヴァンチュラ、音楽マイルス・デイビスという顔ぶれでした。

というわけで、60年代ポップス・非英語編(特に女性ボーカル編)まだまだ続きます。ニコニコ。 横向き


11月26日 いよいよ師走も近づいてきました。ということは小生もまた一つジジイになるっちゅうことですか・・・・・ハァ。

今日は久しぶりに晴れのいいお天気になりました。でもこれも今日限り。明日は少し気温が上がって雪ではなくて雨になるとの予報です。路上の氷が一端雨で溶けて、夕方からはまっ平らなスケートリンクの一丁上がり。これが厄介なんですよね。冬の北国の生活で一番危険なツルツル路面。いつにもまして外に出て行く気になれません。

で、本日のデタラメ五・七・五
「久かたの お陽さま眺め 林檎噛む」

なぜか最近林檎を良く食べています。小生が子供だった頃は果物といえば林檎。風邪をひいて熱があるときなどはオフクロが林檎をすりおろして食べさせてくれたものです。今のように物流システムが整備されておらず、否応なく地域で生産されたものを食べるのが当たり前だったからでしょうね。

北国では林檎が最も一般的な果物です。今でこそ葡萄やらサクランボやら栽培する果物の種類も広がってきましたが、昔は林檎くらいしかありませんでした。本州では果物といえば枇杷があり、柿があり、冬にかけては蜜柑がありますよね。でも極寒の北海道ではそれらは冬を越えられず、唯一その根性があるのが林檎だったんですな。

秋になると、雑な造りの木箱にいっぱい林檎が入ったものを買って、それを寒い物置に置いて取り出しては食べていました。昔は今の品種とは全く違った林檎がありましたねえ。例えば小生が一番好きだった「旭(あさひ)」。いまや幻のリンゴとまで呼ばれるようになってしまいました。実際当地のスーパーでも売っていませんし、おそらく全国のデパートでも買えないでしょう。でも食べたいなあ・・・・・。

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「丸かじり」がベストな品種です。そんなに大きくなくてどちらかといえば小ぶりな林檎です。皮が薄くてパンと張りがあって、丸かじりすると「パリッ!」と皮が弾け、滴るような酸味溢れる林檎のジュースと何とも言えない香りが口に中に広がります。真っ白な果肉はしっかりと実が詰まって固く、しっかりとした歯応えがあります。小生の中では「King of Apple」です。「旭」があるときは、他の林檎には手が出ませんでした。

この「旭」ですが、カナダ原産で日本に入ってからの品種改良などは行われていない非常に古い品種のようです。Apple社のMacintoshというコンピュータがありますが、このMacintoshが、まさにこの「旭」というリンゴの英語名だということらしいです(というか、Macintoshの国内名が「旭」ということらしい・・・・)。

この「旭」の生産量がどんどん減っていった最大の理由は「日保ちしない」こと。品種的にも早生なのですが保存が効かず、すぐに「ボケ」てしまうんですな。そうなるとあの固い歯ざわりの魅力が無くなってしまって味もガクンと落ちてしまいます。秋に収穫したものを11月中には消費までもっていかなくちゃならんということで、生産する側が嫌った結果のようです。

小生は林檎は皮ごと丸かじりが好きで、甘いものより酸っぱいもの、歯ざわりのしっかりしたものが好きなのですが、そんなこんなで最近では「旭」の変わりに「茜」という品種を好んで食べていましたが、これも早生種のためもう手に入らず、今の時期はジョナ・ゴールドという林檎を食べています。

おっと、林檎の話で終わってしまうとこだった・・・・イカン イカン。



本日も60年代ポップス・非英語編。その第三弾はこれ!

1965  フランス・ギャル 「夢 見るシャンソン人形」

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フランス・ギャルって、まさにフランスの女の子?って感じですが、これはれっきとした芸名のようです^^。
本名はイザベル・ジュヌヴィエーヴ・マリ・アンヌ・ギャル(Isabelle Geneviève Marie Anne Gall )。
1947年10月9日フランスのパリ生まれ。お父さんは元歌手で作詞家のロベール・ギャル。
1965年3月、17歳のときにイタリアで開かれた第10回ユーロビジョン・ソング・コンテストでなぜかルクセンブルグ代表(確かヴィッキーもルクセンブルグ代表・・・・出場枠が余ってたのかも^^)として出場。この『夢見るシャンソン人形』を歌ってグラプリに輝き一躍世界に知られる歌手となります。

この曲の作詞・作曲はギャルの父親の知人で、あの問題作『ジュ・テーム』の作者でもあるセルジュ・ゲンスブール。50代の方なら絶対一度は聴いたことがある懐かしのメロディですよね。

1965 France Gall 「Poupée de cire poupée de son:夢見るシャンソン人形」


岩谷時子さんの名訳による日本語盤も登場しましたし、日本人の歌手によるカバーもあって当時の日本人なら誰もが聴いたことがある曲のひとつだったのではないでしょうか。小生なんぞも「私は夢見るシャンソン人形・・・・」なんて良く歌詞の意味も分からず鼻歌を歌っていたものです。

フランス・ギャル。どことなく少女っぽさが残った歌い方と歌声が何とも可愛らしいです。ちょっと先輩格になるシルビイ・バルタンやフランソワーズ・アルディが大人のオンナという雰囲気が強いせいか、フランス・ギャルが一層少女っぽく思えるのかもしれませんね・・・・・。

その後も「涙のシャンソン日記:Attends où va-ten」や「天使のためいき:Nous ne sommes pas des anges」 が立て続けに日本でもヒットし、1966年6月には来日公演も果たしました。

私生活面では、90年以降旦那さんと娘さんを亡くすという悲しい出来事に見舞われたようで、必ずしも幸せとは言えないのかもしれませんが、でも歌手として一生を決定してしまうような運命的な曲に巡り会ったことは、やはり幸せなことなんでしょうね・・・・。