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2002.01.31
「ごめんなさい」の言えない現代日本 その壱
北海道人、特に田舎地域に住む人々の運転マナーの悪さ、これはもう最悪です。人や車がたくさん通らないからだとは思うのですが、自分のやりいたいときにやりたい放題のことをする。他の人たちの迷惑とか一切お構いなし。傍若無人とはまさしくこういうことを指すのでしょう。しかも自分が悪いことをしているという自覚が全然無い。だからよけいに始末が悪い。私もできるだけ腹を立てないように生きていこうと自らを戒めているのですが、またまた事件が起きてしまいました。
実家へ夕飯を作るためにツルツルに凍った歩道を歩いて行く私。実家から道を一本はさんで隣のお菓子屋の前にある自動販売機でタバコを買っていると、そこに一台の乗用車がやってきました。こいつがまた例によって歩行者のために除雪されたわずかな幅しかない歩道を塞ぐように車を停めました。どうやらタバコを買いに寄ったみたいです。でもそこに私がいたのがまずかった。車から降りてきたのは、身長は150センチくらいで細身で白髪頭の年齢はおよそ80歳くらいの爺さま。
『あーあ、またこいつもかあ・・・・。いい年をして一体何を考えてるんだろう。』
タバコを買うのを中断して、
「あのー、そこは歩道だから停めないようにしてもらえませんかねえ。」
「・・・・・。」
「歩行者が歩く場所がわずかしかないんだから、無理矢理そこに停めなくてもいいでしょう。」
「わかった。」(じっとこちらの目を睨んでいる。)
「わかったと言うんだったら、あと1m下がってそこのがら空きの駐車場に移動したらどうですか。」
「わかった。」(相変わらずこちらの目を睨み続ける。)
『こいつテコでも動かす気が無いのか・・・・。』
「本当にわかったんだったら、口で言うだけでなく車を動かしてくださいよ。」
すると爺さま、いきなり車に乗り込み、
「てめえ偉そうに。何が起こるかわからないからせいぜい気をつけるんだな。」
ドアを勢いよく閉めたかと思うと、急発進をして私のすぐ横をかすめるように5mほど車を走らせる。
「おい!待て! 何が起こるかわからないって、私をひき殺すってことか!」
車ににじり寄り問い詰める私。
爺さま窓を空けて、
「へッ、今度あったらそういうこともあるかもな。せいぜい気をつけることだな。このクソ野郎。」
捨て台詞を残してこの爺さまはツルツルの道を急発進で去っていった。
『なんてこった・・・・。こんな奴ばっかりだ。』
怒りで指が震える。落ち着こうと深呼吸をしてゆっくりタバコを買い直す。そして実家へとゆっくりと歩いていき、玄関の門扉を空けたとき、あの車がまた戻って来た。
『こっちがいなくなるのを待って一回りしてきたのか・・・・。』
じっとこちらを見ている。
私もその場に立ち止まり、相手がどういう動きに出るかじっと目を凝らす。
今度はちゃんと駐車場に車を停めてはいる。
『車をぶつけてくるくらいの脅しをする奴だ。まずい。こっちの居所を知られてしまった。この先何をされるかわからない・・・・。』
反射的に頭に浮かんだ。
『相手の素性を知らなくては。そうだ車のナンバーだ!』
再び道路へ戻り相手の動きをじっと待つ。するといきなり急速でバックを始めた。
視界から車が消えた。
『まずい。このままでは相手の素性がわからない。』
しまったと思い、車が消えた方向が見える場所まで戻ってみると、今度はスピードをあげてまたこちらへ向かってきた。ヤバイ!とっさに塀の陰に隠れた。
車は再び菓子屋の駐車場に止まった。
『よしよし。これでナンバーがわかる。』
しかし向こうもなかなか動かない。真っ暗な寒空の中、我慢比べだ。
するとおもむろにドアが空き、爺さまが出てきた。どうやらタバコの誘惑には勝てなかったようだ。チャンスとばかりに車の後ろに回りこみ、ナンバーを確認し、手帳に書きつける。
『これでフィフティフィフティだ。』
車が立ち去るのを待って実家の門を空ける。
今までも注意をして逆ギレされたことは何度もある。一度は「てめえぶっ飛ばすぞ!」と凄まれたこともある。でも今度のように脅迫されたことは無かった。ましてこちらの居所も知られている。私は実家への嫌がらせを警戒して110番に電話をした。
事情を説明すると、20分ほどして地元の交番から警察官が3名やってきた。事実経緯を話し、向こうからは相手の人相・服装・車のナンバー、どちらかが手を出したか、酒を飲んでいた様子か等を聞かれる。現時点で実害を被っていないことから、すぐさま事件としてどうこうできないが、早速相手を見つけ出して事情を確認するとのこと。
数年前の警察不祥事が好影響をもたらしたのか、警察がすぐ対応してくれたことに感謝だ。
しかし、警察が出てきたことによって反省するものもいれば、余計に逆恨みする輩もいる。あのジジイは果たしてどっちだろう? 何かあったらすぐ警察に連絡するよう家族に伝える。
そうこうするうち警察から電話が入る。相手を突きとめ事実関係を確認したところ、脅迫的な言動をとったことを認めたという。厳重注意したところ、すっかり反省した様子だったという。しかし、嫌がらせのような報復的行為が絶対に起きないとは言えないので、その場合はすぐ110番するように。実際の事件に至っていないので、相手の住所・氏名はお教えできないが悪しからず・・・・。とのことであった。
これで一軒落着してくれれば良いのだが・・・・。
ことほどさように、今の日本は「ごめんなさい。」がスッと言えない社会になってしまっています。今時の若い奴はと良く言われますが、今回のようにもう80歳にもなる人間でさえこのありさまです。だからこれは世代の問題ではない。もちろん教育の問題でもない。私はこれは現代という時代の問題だと思っています。
その問題とは何か? 要するに価値観の問題です。人間にとって最も大切なのは、他者に対する思いやり(=愛)であると私は思っています。しかし現代という時代が最も重視しているのは究極的にはカネです。カネを持っている者こそ勝者であり、そうでないものは敗者であるとする風潮が間違い無くあります。カネは世俗的な地位も名誉も買うことが出来るのです。
そしてそこにあるものは競争に他なりません。競争とは他者を蹴落とし自分が這い上がるという世界です。もうおわかりでしょうが、他者を慮ることは競争する者にとっては致命的でさえあるのです。競争相手に情けをかけている余裕などどこにも無いのです。
だから自分の利益になるよう、自分の得になるようにというのが、無意識のうちに行動指針となってしまうのです。その醜さに気付かず、周囲への配慮など最初から頭の片隅にも無い人間がどんどん再生産されているのが、まさしく現代社会ではないでしょうか。
(続く)
実家へ夕飯を作るためにツルツルに凍った歩道を歩いて行く私。実家から道を一本はさんで隣のお菓子屋の前にある自動販売機でタバコを買っていると、そこに一台の乗用車がやってきました。こいつがまた例によって歩行者のために除雪されたわずかな幅しかない歩道を塞ぐように車を停めました。どうやらタバコを買いに寄ったみたいです。でもそこに私がいたのがまずかった。車から降りてきたのは、身長は150センチくらいで細身で白髪頭の年齢はおよそ80歳くらいの爺さま。
『あーあ、またこいつもかあ・・・・。いい年をして一体何を考えてるんだろう。』
タバコを買うのを中断して、
「あのー、そこは歩道だから停めないようにしてもらえませんかねえ。」
「・・・・・。」
「歩行者が歩く場所がわずかしかないんだから、無理矢理そこに停めなくてもいいでしょう。」
「わかった。」(じっとこちらの目を睨んでいる。)
「わかったと言うんだったら、あと1m下がってそこのがら空きの駐車場に移動したらどうですか。」
「わかった。」(相変わらずこちらの目を睨み続ける。)
『こいつテコでも動かす気が無いのか・・・・。』
「本当にわかったんだったら、口で言うだけでなく車を動かしてくださいよ。」
すると爺さま、いきなり車に乗り込み、
「てめえ偉そうに。何が起こるかわからないからせいぜい気をつけるんだな。」
ドアを勢いよく閉めたかと思うと、急発進をして私のすぐ横をかすめるように5mほど車を走らせる。
「おい!待て! 何が起こるかわからないって、私をひき殺すってことか!」
車ににじり寄り問い詰める私。
爺さま窓を空けて、
「へッ、今度あったらそういうこともあるかもな。せいぜい気をつけることだな。このクソ野郎。」
捨て台詞を残してこの爺さまはツルツルの道を急発進で去っていった。
『なんてこった・・・・。こんな奴ばっかりだ。』
怒りで指が震える。落ち着こうと深呼吸をしてゆっくりタバコを買い直す。そして実家へとゆっくりと歩いていき、玄関の門扉を空けたとき、あの車がまた戻って来た。
『こっちがいなくなるのを待って一回りしてきたのか・・・・。』
じっとこちらを見ている。
私もその場に立ち止まり、相手がどういう動きに出るかじっと目を凝らす。
今度はちゃんと駐車場に車を停めてはいる。
『車をぶつけてくるくらいの脅しをする奴だ。まずい。こっちの居所を知られてしまった。この先何をされるかわからない・・・・。』
反射的に頭に浮かんだ。
『相手の素性を知らなくては。そうだ車のナンバーだ!』
再び道路へ戻り相手の動きをじっと待つ。するといきなり急速でバックを始めた。
視界から車が消えた。
『まずい。このままでは相手の素性がわからない。』
しまったと思い、車が消えた方向が見える場所まで戻ってみると、今度はスピードをあげてまたこちらへ向かってきた。ヤバイ!とっさに塀の陰に隠れた。
車は再び菓子屋の駐車場に止まった。
『よしよし。これでナンバーがわかる。』
しかし向こうもなかなか動かない。真っ暗な寒空の中、我慢比べだ。
するとおもむろにドアが空き、爺さまが出てきた。どうやらタバコの誘惑には勝てなかったようだ。チャンスとばかりに車の後ろに回りこみ、ナンバーを確認し、手帳に書きつける。
『これでフィフティフィフティだ。』
車が立ち去るのを待って実家の門を空ける。
今までも注意をして逆ギレされたことは何度もある。一度は「てめえぶっ飛ばすぞ!」と凄まれたこともある。でも今度のように脅迫されたことは無かった。ましてこちらの居所も知られている。私は実家への嫌がらせを警戒して110番に電話をした。
事情を説明すると、20分ほどして地元の交番から警察官が3名やってきた。事実経緯を話し、向こうからは相手の人相・服装・車のナンバー、どちらかが手を出したか、酒を飲んでいた様子か等を聞かれる。現時点で実害を被っていないことから、すぐさま事件としてどうこうできないが、早速相手を見つけ出して事情を確認するとのこと。
数年前の警察不祥事が好影響をもたらしたのか、警察がすぐ対応してくれたことに感謝だ。
しかし、警察が出てきたことによって反省するものもいれば、余計に逆恨みする輩もいる。あのジジイは果たしてどっちだろう? 何かあったらすぐ警察に連絡するよう家族に伝える。
そうこうするうち警察から電話が入る。相手を突きとめ事実関係を確認したところ、脅迫的な言動をとったことを認めたという。厳重注意したところ、すっかり反省した様子だったという。しかし、嫌がらせのような報復的行為が絶対に起きないとは言えないので、その場合はすぐ110番するように。実際の事件に至っていないので、相手の住所・氏名はお教えできないが悪しからず・・・・。とのことであった。
これで一軒落着してくれれば良いのだが・・・・。
ことほどさように、今の日本は「ごめんなさい。」がスッと言えない社会になってしまっています。今時の若い奴はと良く言われますが、今回のようにもう80歳にもなる人間でさえこのありさまです。だからこれは世代の問題ではない。もちろん教育の問題でもない。私はこれは現代という時代の問題だと思っています。
その問題とは何か? 要するに価値観の問題です。人間にとって最も大切なのは、他者に対する思いやり(=愛)であると私は思っています。しかし現代という時代が最も重視しているのは究極的にはカネです。カネを持っている者こそ勝者であり、そうでないものは敗者であるとする風潮が間違い無くあります。カネは世俗的な地位も名誉も買うことが出来るのです。
そしてそこにあるものは競争に他なりません。競争とは他者を蹴落とし自分が這い上がるという世界です。もうおわかりでしょうが、他者を慮ることは競争する者にとっては致命的でさえあるのです。競争相手に情けをかけている余裕などどこにも無いのです。
だから自分の利益になるよう、自分の得になるようにというのが、無意識のうちに行動指針となってしまうのです。その醜さに気付かず、周囲への配慮など最初から頭の片隅にも無い人間がどんどん再生産されているのが、まさしく現代社会ではないでしょうか。
(続く)
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2002.01.31
「ごめんなさい」の言えない現代日本 その弐
折しも、昨日の国会で田中外務大臣と野上事務次官が一つの事実について全く正反対の答弁をして大問題になり、結果的に田中外務大臣も野上事務次官、そして疑惑の鈴木宗男議員の更迭という何ともいわく言い難い決着をしたばかりですが、これとても全く同じ根っこから起こっていると思われてなりません。
どちらかが明らかに虚偽を述べている。国会議員も政府も官僚も主権者である国民に対して奉仕する立場でありながら、皆自分の損得ばかりを考えて行動しているのはもう衆知の事実ですよね。国会議員は自分の権力と利権をより強めるため、官僚も自分の保身と出世のため、政府は政権を維持するためだけに汲々として、誰一人主権者である国民のことなんか真剣に考えていません。
どこに正義があるのでしょうか・・・・?
良く考えて見てください。小泉内閣はインチキだと私は以前から批判していますが、ここにきてすっかり化けの皮が剥がれた感じがしませんか? 国会というのは、国民の代表が国の進むべきあり方について議論し決定していくというある意味神聖な場です。その場で政府閣僚かあるいは官僚のトップのどちらか一方が明々白々な虚偽の答弁をしている。しかるに小泉首相はこの問題を「言った、言わない。くらいの低レベルな話」で片付けてしまったのです。
これは政府あるいは官僚機構が国民を欺いているという、民主主義国家にとってあるまじき極めて重大な問題だと私は思います。正しい情報が提出されずに嘘を前提にして議論したところで、そこに一体どんな意味があるというのでしょう。このような国家の本質に関わる問題を、かの人気首相は「言った、言わない。くらいの低レベルな話」としか認識していないのです。真実を求める国民のことなど全く念頭にないことが図らずも暴露されてしまったわけです。
いかにも「国民のためにこの国を改革する!」と青筋立てて叫んでみても、そんなのは所詮パフォーマンス。要は平成維新を断行した名宰相として歴史に名を残すことだけを考えている単なる目立ちたがり屋に過ぎません。もしもですよ、本当に国民のための聖域無き構造改革を唱えるのなら、政府や官僚機構への不信を取り除くことこそが最大の政治改革であるべきはずなのに。そんなものどこを探しても見当たりません。
今回の出来事は外相就任以来いろいろ問題もあった田中大臣が、その豪腕でやっとこさ表舞台にまで引き出した「官僚と政治の癒着構造」という腐りきった膿を国民の前に晒し、新しい日本の政治構造を再構築する絶好の機会であったと思います。この点に関しては彼女の功績は大きい。
しかるに改革の旗手である小泉首相が何をやったかというと、景気回復のために一日の猶予もならない補正予算を通してもらうことのほうが優先事項であるとして、国民を欺いた者は誰なのかを突きとめる努力もせず、国会審議を妨げる格好となった関係者全員のクビをすげ替えて一切をうやむやにするという従来からの政治手法・・・・。
ここまで落ち込んだ景気が補正予算の執行が2・3ヶ月遅れたところで一体どうなるというのでしょう? 苦し紛れに精一杯理屈をつけたつもりでしょうが、理屈にも何もなっていない。これも国民に対する騙し以外の何物でもありません。
田中大臣を任命したのも小泉。田中大臣の嫌がる野上次官をあえて任命したのも小泉、その二人のどとらかが国民を騙している事実に照らせば、うやむやに終わらせるのであれば、その責任は小泉首相自身がとって辞職するのが筋というものです。
にもかかわらず、ご自分だけはあれは他人事のような顔をして権力の座に居座り続ける。おそらく彼は恥という言葉を知らないのかもしれません。良く中国の古典や日本の昔の学者の言葉を引き合いに出しますが、あれも一種のパフォーマンス、知識のひけらかしに見えて仕方ありません。
もっとも自分に都合の悪い言葉はきっと都合良く忘れてしまうのでしょう。
言っていることは威勢が良いが、そこにあるものはキャッチフレーズだけで中味は何もない。例えて言えばマッチみたいなもの。最初は勢い良く燃え上がるが、すぐ消えてしまう・・・・。
困ったことは、何もないで終わってくれればまだ良いのですが、国民にだけ塗炭の苦しみを押し付ける改革と称するものを無理矢理押し通そうとすること。やるんなら最低限同時に国会議員の数を半分にして給料も半分にするくらいのことはやってもらわないと筋が通りません。
国会の場で嘘を言ったものが、そして官僚に圧力をかけ本来その権限も無いのに横槍を入れた国会議員が、そして国民を欺くような不届きな真似をした行政府の長が、その誰一人として「ごめんなさい。」と言わない。そしてそれで良しとしてしまった。まさに現代日本を象徴する出来事ではありませんか・・・・。
何でもかんでもアメリカ式の価値観を日本に持ち込めば良いというものではありません。皆さんもこんな笑い話を聞いたことがあるでしょう。「アメリカでは事故ッた時に決して謝ってはいけない。なぜなら謝ったということはこちらの過失を認めたことになり、不利になるから・・・・云々。」
自分が悪い事をしたとしても謝るなというのが、アメリカ式です。こんなものは糞食らえだ。自分の犯した誤りは潔く認めて心から謝罪する。そうすることでそのような相手ともこれからの関係を維持していける。これこそが日本式です。そして日本式のほうが絶対優れています。
話しは少しずれますが、今日の国会答弁で西川きよし議員が「家族のあり方について小泉首相はどう考えておられるか?」という質問をしていた。それに答えて曰く「しっかり抱きしめて、そっと降ろして、歩かせる。そうすれば子供は真っ直ぐに成長していってくれる。子供を突き放してはいけない。幼児期にはしっかり抱きしめてやることこそが何より大切で、そして時期が来たときにそっと降ろしてあげればあとは一人で歩いていくから、それをじっと見守ってあげるだけでいい。」と。これを聞いて私はまたもやこの小泉という人間には何一つ統一された信念というか、核と言うべきものがないのだなと痛感してしまいました。
今の日本経済を思い描いてみれば、その矛盾が如実に炙り出されてきます。デフレスパイラルに嵌りこんでいる今の日本経済、企業やそこに働く人々は例えて言えば病人か、保護を必要としている幼児のようなものです。ならばまずは親である国家がしっかり抱きしめて安心させてやることが何よりも肝要であるはず。そこで自信を取り戻したらそっと降ろしてやり、一人で歩くのを見守ってやる。これこそが今の政府が取るべき態度ではないでしょうか。
しかるに現実はどうでしょう? こんな経済情勢にもかかわらず預金のペイオフは無理矢理進める。銀行業界はペイオフの始まる4月にはしっかりした経営基盤を持つことが政府から要請されているので、不良債権の処理をもちろんのこと「貸し剥がし」という信用力に問題の残る企業への融資を一斉に回収し始めている。要は多くの中堅中小企業が既往融資の返済を力ずくで迫られている状況です。これから3月末までの間に企業倒産がますます増加するでしょう。
銀行に注ぎ込んだ公的資金は、名目は中堅中小企業への資金供給を行うためにということになっていますが、実際は中堅中小企業の融資は増えるどころかどんどん回収されています。その現状を知っていても政府はほとんど手を打とうともしません。これは銀行救済以外の何物でもありません。極論ですが、こんな形で税金を使うくらいなら、その資金で借金を棒引きにしてあげたほうがよっぽど企業や国民のためになります。
今の政府がやっていることは、弱っている病人や幼児を突き放し、自立できないのなら死んでしまえ。あとは生き残った強いものだけがいれば良いという政策以外の何物でもありません。しかも生かすか殺すかは密室で決まっているんです。ダイエーは救済する。どうしてそごうやマイカルは救済されなかったのでしょうか?誰がどのような基準で決めたのでしょうか?その基準なるものを皆さん知っていますか? 国民は何も知らされていませんよね。いくら口先だけ勇ましいことを言っていても所詮は従来の自民党的政治手法を踏襲しているだけではないですか。
そんな小泉内閣でも小泉首相でも好きだから支持するというのはもちろん個人の自由です。私はどこにも正義がなく暴走しかねない、このサタンのような政府は一刻も早く消えてなくなって欲しいと思っているのですが・・・・。
人として生まれた以上、大切なものは愛であり信義であり、よりよきを指向する向上心であり、潔さであると思っています。これは現代日本の価値観とは対極に位置するかもしれませんが、本物は必ず蘇ることを信じてたとえ一人でもそれで行きたいと思っています。きっと同感してくださる方もいると信じてもいます。私自身そんな誉められた人間ではありませんが、少しでも思いやりを、そして自分に非があるときは潔く認めて、素直な気持ちで「ごめんなさい。」を言うように努めていきたいと思った今日一日でした。
(了)
どちらかが明らかに虚偽を述べている。国会議員も政府も官僚も主権者である国民に対して奉仕する立場でありながら、皆自分の損得ばかりを考えて行動しているのはもう衆知の事実ですよね。国会議員は自分の権力と利権をより強めるため、官僚も自分の保身と出世のため、政府は政権を維持するためだけに汲々として、誰一人主権者である国民のことなんか真剣に考えていません。
どこに正義があるのでしょうか・・・・?
良く考えて見てください。小泉内閣はインチキだと私は以前から批判していますが、ここにきてすっかり化けの皮が剥がれた感じがしませんか? 国会というのは、国民の代表が国の進むべきあり方について議論し決定していくというある意味神聖な場です。その場で政府閣僚かあるいは官僚のトップのどちらか一方が明々白々な虚偽の答弁をしている。しかるに小泉首相はこの問題を「言った、言わない。くらいの低レベルな話」で片付けてしまったのです。
これは政府あるいは官僚機構が国民を欺いているという、民主主義国家にとってあるまじき極めて重大な問題だと私は思います。正しい情報が提出されずに嘘を前提にして議論したところで、そこに一体どんな意味があるというのでしょう。このような国家の本質に関わる問題を、かの人気首相は「言った、言わない。くらいの低レベルな話」としか認識していないのです。真実を求める国民のことなど全く念頭にないことが図らずも暴露されてしまったわけです。
いかにも「国民のためにこの国を改革する!」と青筋立てて叫んでみても、そんなのは所詮パフォーマンス。要は平成維新を断行した名宰相として歴史に名を残すことだけを考えている単なる目立ちたがり屋に過ぎません。もしもですよ、本当に国民のための聖域無き構造改革を唱えるのなら、政府や官僚機構への不信を取り除くことこそが最大の政治改革であるべきはずなのに。そんなものどこを探しても見当たりません。
今回の出来事は外相就任以来いろいろ問題もあった田中大臣が、その豪腕でやっとこさ表舞台にまで引き出した「官僚と政治の癒着構造」という腐りきった膿を国民の前に晒し、新しい日本の政治構造を再構築する絶好の機会であったと思います。この点に関しては彼女の功績は大きい。
しかるに改革の旗手である小泉首相が何をやったかというと、景気回復のために一日の猶予もならない補正予算を通してもらうことのほうが優先事項であるとして、国民を欺いた者は誰なのかを突きとめる努力もせず、国会審議を妨げる格好となった関係者全員のクビをすげ替えて一切をうやむやにするという従来からの政治手法・・・・。
ここまで落ち込んだ景気が補正予算の執行が2・3ヶ月遅れたところで一体どうなるというのでしょう? 苦し紛れに精一杯理屈をつけたつもりでしょうが、理屈にも何もなっていない。これも国民に対する騙し以外の何物でもありません。
田中大臣を任命したのも小泉。田中大臣の嫌がる野上次官をあえて任命したのも小泉、その二人のどとらかが国民を騙している事実に照らせば、うやむやに終わらせるのであれば、その責任は小泉首相自身がとって辞職するのが筋というものです。
にもかかわらず、ご自分だけはあれは他人事のような顔をして権力の座に居座り続ける。おそらく彼は恥という言葉を知らないのかもしれません。良く中国の古典や日本の昔の学者の言葉を引き合いに出しますが、あれも一種のパフォーマンス、知識のひけらかしに見えて仕方ありません。
もっとも自分に都合の悪い言葉はきっと都合良く忘れてしまうのでしょう。
言っていることは威勢が良いが、そこにあるものはキャッチフレーズだけで中味は何もない。例えて言えばマッチみたいなもの。最初は勢い良く燃え上がるが、すぐ消えてしまう・・・・。
困ったことは、何もないで終わってくれればまだ良いのですが、国民にだけ塗炭の苦しみを押し付ける改革と称するものを無理矢理押し通そうとすること。やるんなら最低限同時に国会議員の数を半分にして給料も半分にするくらいのことはやってもらわないと筋が通りません。
国会の場で嘘を言ったものが、そして官僚に圧力をかけ本来その権限も無いのに横槍を入れた国会議員が、そして国民を欺くような不届きな真似をした行政府の長が、その誰一人として「ごめんなさい。」と言わない。そしてそれで良しとしてしまった。まさに現代日本を象徴する出来事ではありませんか・・・・。
何でもかんでもアメリカ式の価値観を日本に持ち込めば良いというものではありません。皆さんもこんな笑い話を聞いたことがあるでしょう。「アメリカでは事故ッた時に決して謝ってはいけない。なぜなら謝ったということはこちらの過失を認めたことになり、不利になるから・・・・云々。」
自分が悪い事をしたとしても謝るなというのが、アメリカ式です。こんなものは糞食らえだ。自分の犯した誤りは潔く認めて心から謝罪する。そうすることでそのような相手ともこれからの関係を維持していける。これこそが日本式です。そして日本式のほうが絶対優れています。
話しは少しずれますが、今日の国会答弁で西川きよし議員が「家族のあり方について小泉首相はどう考えておられるか?」という質問をしていた。それに答えて曰く「しっかり抱きしめて、そっと降ろして、歩かせる。そうすれば子供は真っ直ぐに成長していってくれる。子供を突き放してはいけない。幼児期にはしっかり抱きしめてやることこそが何より大切で、そして時期が来たときにそっと降ろしてあげればあとは一人で歩いていくから、それをじっと見守ってあげるだけでいい。」と。これを聞いて私はまたもやこの小泉という人間には何一つ統一された信念というか、核と言うべきものがないのだなと痛感してしまいました。
今の日本経済を思い描いてみれば、その矛盾が如実に炙り出されてきます。デフレスパイラルに嵌りこんでいる今の日本経済、企業やそこに働く人々は例えて言えば病人か、保護を必要としている幼児のようなものです。ならばまずは親である国家がしっかり抱きしめて安心させてやることが何よりも肝要であるはず。そこで自信を取り戻したらそっと降ろしてやり、一人で歩くのを見守ってやる。これこそが今の政府が取るべき態度ではないでしょうか。
しかるに現実はどうでしょう? こんな経済情勢にもかかわらず預金のペイオフは無理矢理進める。銀行業界はペイオフの始まる4月にはしっかりした経営基盤を持つことが政府から要請されているので、不良債権の処理をもちろんのこと「貸し剥がし」という信用力に問題の残る企業への融資を一斉に回収し始めている。要は多くの中堅中小企業が既往融資の返済を力ずくで迫られている状況です。これから3月末までの間に企業倒産がますます増加するでしょう。
銀行に注ぎ込んだ公的資金は、名目は中堅中小企業への資金供給を行うためにということになっていますが、実際は中堅中小企業の融資は増えるどころかどんどん回収されています。その現状を知っていても政府はほとんど手を打とうともしません。これは銀行救済以外の何物でもありません。極論ですが、こんな形で税金を使うくらいなら、その資金で借金を棒引きにしてあげたほうがよっぽど企業や国民のためになります。
今の政府がやっていることは、弱っている病人や幼児を突き放し、自立できないのなら死んでしまえ。あとは生き残った強いものだけがいれば良いという政策以外の何物でもありません。しかも生かすか殺すかは密室で決まっているんです。ダイエーは救済する。どうしてそごうやマイカルは救済されなかったのでしょうか?誰がどのような基準で決めたのでしょうか?その基準なるものを皆さん知っていますか? 国民は何も知らされていませんよね。いくら口先だけ勇ましいことを言っていても所詮は従来の自民党的政治手法を踏襲しているだけではないですか。
そんな小泉内閣でも小泉首相でも好きだから支持するというのはもちろん個人の自由です。私はどこにも正義がなく暴走しかねない、このサタンのような政府は一刻も早く消えてなくなって欲しいと思っているのですが・・・・。
人として生まれた以上、大切なものは愛であり信義であり、よりよきを指向する向上心であり、潔さであると思っています。これは現代日本の価値観とは対極に位置するかもしれませんが、本物は必ず蘇ることを信じてたとえ一人でもそれで行きたいと思っています。きっと同感してくださる方もいると信じてもいます。私自身そんな誉められた人間ではありませんが、少しでも思いやりを、そして自分に非があるときは潔く認めて、素直な気持ちで「ごめんなさい。」を言うように努めていきたいと思った今日一日でした。
(了)
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