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前回は経済の話でちょっとややこしかったかもしれませんね。今回は全くの独り言。うって変わってお気楽すぎだし、ちょっと愚痴っぽくなるかもしれませんが、まあそれも独り言ということでご勘弁を・・・。

私が本格的に作曲活動を始めてCDという形あるものを作り始めてから、そうですねぇ もう丸三年くらいになるでしょうか。そしてそれらの曲を少しでも多くの人に聞いてもらいたいと思ってホームページを立ち上げたのが2000年の7月だから、かれこれ一年になろうかというところです。その間ボチボチといろいろな検索サービス等で見つけて来てくれたお客様、こちらから声をかけて来てもらった友人たちがいるわけですが、振り返ってつくづく思い知らされるのは、なかなか人の輪というものは広がっていかないもんだなあということです。

インターネットというのは新聞やテレビメディアとはまた異質のメディアだろうと思って、最初はかなり期待していたんですが、既存メディアとインターネットって実のところものすごく密接な関係で成り立っているんだなぁと今改めて感じています。要は新聞やテレビで取りあげられたサイトにはにものすごいアクセスがある。同様にテレビに頻繁に露出している人が運営しているサイトにはたくさんの人が集まる。

私のようになかなか外へ出ていきにくい人間が情報発信する手段として「これしかない!」と思ったインターネットですが、マイナーはマイナーでしかあり得ないんだなぁ・・・・と厳しい現実を認めざるを得ません。

インターネットの世界でメジャーへの変身を遂げる最大の近道はYahooのカテゴリーに登録されることらしいのですが、これがまた難しい。昔は比較的簡単だったようで、登録されているサイトの中には内容も見た目もみすぼらしいものが多々あるけれども、(中にはリンクが切れているものだってかなりあったりする)それらはそのままなのに、新しく申し込んだ個人サイトなどはほとんど受け付けてもらえない。

また、別の検索サービス会社では有料審査方式に切り替えているところも多いようです。これだって金を払えば登録してもらえるというのではなく、載せるに値するか審査するのに金を払え、それで不適格ならお断り、頂いたお金はお返ししません・・・と。Yahooも広告掲載が見込める企業サイトならどんどん登録するようですし、まったくどこもかしこもカネ・カネ・カネですよね。

そんな中で細々とインターネットの世界で私の音楽を発表しているわけですが、マイナーならマイナーで構わないんだけれども、マイナーならではの仲間うち的な熱さというのがあるか?と問われるとこれもなかなか・・という感じです。まあ小生の音楽自体がとっても地味なものだし、これといって世間に認められるような実績もないし、盛り上がる要素を探し出す方が難しいかもしれませんが、それでも同じ一つの音楽を中心にして人の輪が生まれることを願っていたのですが、なかなかそうならないものなんですね。

私とある人、また私と別のある人という形での交流は多少は生まれてきましたが、それが人と人との輪となるまでには至っていません。まあこれがネットの世界の限界なのかもしれないなぁと最近思っています。まず最初に人と人のつながりがあって、その情報交換や交流を仲立ちする手段としてはインターネットはとてもうまく機能するように思います。でもお互い見も知らぬ人々がネットを通じて人の輪を結んでいくというのは、これはとてつもなく大変なことで、オフ会と称する現実の交歓会が必要なわけもやっと分かってきたところです。

ネットの世界はある意味で生身の自分を隠し通せるという匿名性が利用者にとってメリットのあるところで、あえて生身の自分をさらけ出してまでも交流したいと思うということは、よほどのことがないと難しいのは当たり前と言えば当たり前なんでしょうねえ・・・・。

そのような親しい交流は現実に顔を合わせて、相手の人となりを十分理解した上でなければ成り立たないものだし、本来そうでなくてはならないものかもしれません。少し淋しい話ですが、ネット上でそのような交流を求めるのがそもそもの大間違いなのでしょうね。

私自身は今休職中で、暇と言いえば暇な生活を送っている身でもあり、作曲活動やこのホームページの細々とした更新作業のかたわら、高校時代に所属していたジャズ研究会のOB会の結成に向けての活動もしているのですが、ここでも同じような壁にぶつかっています。

こういう同窓会とかOB会といったものは、同じ学校や同じクラブに所属していたという連帯感はあるものの、顔を合わせて付き合いがあったのはせいぜい前後二年の計5年間くらいのメンバーに限られてしまって、それ以外は誰が誰なのかもわからないという状態ですよね。

しかも我々のクラブにはそもそもOB会というものがなく、一年前にある友人から「高校時代の部活のホームページがあるぞ。」ということを教えてもらって初めて我々の代で始めたこのクラブが以降25年間にわたって連綿と続いていることを知った始末。ということで、「ではOB会でも作りたいねぇ・・・」という単純な発想でそのHPを基地としてOB連中が集まるような企画を考えたり、いろいろ呼びかけをしているんだけれども、これがサッパリ・・・・

私とを個人的なつながりのある面々については、個別にメールを出すなどして協力を取り付けることもできたのですが、2期下以降の後輩連中になるともうお手上げ。

OB名簿があるわけでもなく、誰がOBなのかを探し出すところからのスタートで、自ら名乗りを上げてくれたメンバーにお願いして、自分の同期・先輩・後輩を教えて欲しい。当時の様子について教えて欲しいとメールを出しても返事があったのは大体一割ぐらい。後はナシノツブテです。掲示板への書き込みもなく、最近は閑古鳥が鳴いている・・・。これじゃOB会結成どころじゃないですね(笑)。

もっともみんな仕事が忙しくて高校時代の昔話などをしている暇などないということなのだとは思いますが、一握りの人間でもいいから、「じゃあ俺が一肌脱ごうか!」かという侠気が欲しいと思うのは贅沢なのかなぁ・・・・。

もっともすっかり社会から隔絶した感のある私のことだから、私の感覚の方が世間からズレているのかもしれませんね。まあこれも人と人の輪がつながっていかないことの一つの実例です。同じクラブという共通の基盤があってさえこの有り様ですから、ましてや何のつながりもない人と人とがネットを通じて心を通わせるなどというのは夢物語なのかもしれません。

私自身のことを考えてみても、やっぱりネットだけのつながりだけでは本当の心の交流は難しいと思います。顔を突き合わせて話をし、お互いに心を開いていくのが人間として自然な姿なのは間違いありません。

でも私とある友人A、私と別の友人B、私とまた別の友人Cという現実の交友関係を始まりとして、それこそ映画「Pay it Foward」のように友人Aがその友人に、または友人Bがその友人に、友人Cもその友人に・・・・・・とそれぞれのつながりの中で、例えば私の音楽を紹介してくれたり、私のホームページを教えてくれたりすることで放射状に人と人のつながりは広げていくことはできると思うのです。

あとは放射状に伸びたそのひとつひとつの線を横糸で結び付けられないものか・・・ということですが、これは掲示板や何かでお互いに話を交わしてもらって、ある時期になったらみんなで一度顔合わせをして仲良くなるしかなさそうです。

ぶっちゃけた話、なかなか(というかほとんど)CDが売れません。今までの販売方法が代金先払いのみだったから、私と面識がない方は躊躇してしまいますよね。それは当然です。でも私も超零細事業主ですから、なかなかリスクをとることができずにいました。「でもこのままではダメだ!」と思い、代引き販売と郵便局留め販売のシステムを新しく導入しました。これだったらお客さん側の資金面のリスクや個人情報開示のリスクもある程度抑えられるので、買いやすくなったのではないかと思っています。

今までしてきた人の輪の話って「そういうこと! CDを買ってくれっていうことなのね!」と思われてしまうと、それはちょっと違うのですが(まあそうとられても仕方ないとも思いますが)、時々このページを訪れていただいて、音楽もまあまあいいかなあ・・・と思ってくださる方がいらっしゃったら、ぜひお友達一人でも二人でもいいですから、このHPのことを紹介していただけないかなあ・・・・。

それから曲に対する感想や批評やらそれ以外の話題でも何でもいいですから、掲示板やゲストブックに書き込んでいただいて、それをきっかけ今よりもう一段進んだお付き合いをしていただけないかなあ・・・・というのが私のお願い事です。(CDを買っていただいて、ゆっくり私の音楽に浸って頂けるならそれに勝る喜びはありません。)

またまたぶっちゃけて言ってしまうと、今の状態はあまりにも淋しいんです。なかなか外に出ていくことが難しい私にとって、このホームページ(ネットの世界)が重要な外界との窓口なのですが、なかなか反応を感じとることができない。窓やドアを開いてお客さんを待っていて、お客さんは時折来てくれるけれども、家の中をサッと見渡して何も言わず帰ってしまう。私は声をかけることもできず、またひとりぽつんとそこに居るというような気分なのです。

せっかくCDを作ったのだから多くの人に聞いてもらいたいし、正直買っていただけると経済的にも人助かるということもあります。でもそれよりも何よりも、私の音楽を仲立ちとしてサークルのようなものができないもんかなぁと思っておるわけです。

まあそれもこれも私が人一倍の淋しがりやだからブツクサ言っているだけかもしれません。根は皆でワイワイガヤガヤ、そう昔の学園祭のノリで遊ぶのが大好きな性格だからかもしれません。もう四十歳も超えたことだし、今更その性格をどうこうしろと言われても「もう遅い!」。一緒にワイワイガヤガヤしてもいいかなあと思われた方は、どうぞお仲間になってください。お待ちしてます。

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今やどこもかしこも小泉・真紀子ブームです。国民の90%近くが小泉内閣を支持しているという・・・。
まあ今までの密室的な政治や諸々のしがらみを断ち切ってくれるのではないかという期待が込められているのでしょう。

それはそれで何の文句はないのですが、ただ気になるのは「構造改革・構造改革」と声高に唱えるこの小泉内閣というものが具体的にどういうことをするつもりなのかということもわからずに、諸手を挙げて応援してしまうというこの国・国民の性向というか、皆が右を向けば右、左といえば左という言わば付和雷同・揺れの極端さです。

これは逆の面から捉えれば主権者である個人個人の信念が希薄だということを如実に示しているように思われてなりません。

人間というものは時代が閉塞してくるとみずからその自由さを放棄してでも強力なリーダーシップに付き従いたくなるものらしいです。今の小泉ブームもどうもそんな気がしてなりません。

支持を表明している一人一人はあくまで自分が主体的にリーダーを選んでいるつもりかもしれませんが、実のところは、現状を自分自身で打破していこうという覚悟よりも強力なリーダーに何とかしてもらいたいという受け身の姿勢になっていることに気付いていない・・・・。そのあたりが私にどこか怖さを感じさせるのかもしれません。

まるで政治というものが一種の娯楽のようになってしまった感のある小泉・真紀子現象・・・・。

これは半世紀前のヒトラーや大政翼賛会といったファシズムの胎動のときのようなものとはやや性質は異なるかもしれませんが、批判勢力が極端に衰退し世論形成に著しくバランスを欠く状態というのは、どんな場合であれ政治の暴走を招き、そのツケが結果的に国民に回ってくることは歴史を見れば一目瞭然です。

そして国民のみならずそのブームに乗っかり、冷静・客観的にその政策内容を吟味し批判すべき一種公的立場にある今のマスコミ(特にテレビメディア)というものには失望を感じざるを得ません。

本来の役目を放棄して国民のブームに便乗し、ワルノリに近い形で政治の本質ではなく些末な部分を取り上げ、更に国民を煽る・・・・。

テレビメディアというものは視聴率=企業利益というものに魂を売り渡してしまったのだから、それはそれでいたしかたないとしても、そのテレビメディアが人間に他のものをもって代え難いほどの影響力を持っていることを考えると、それこそキチガイに刃物みたいなもので、国民をますます愚鈍化させていくのは間違いなく、私としては嘆くばかりです。

大宅壮一郎氏が言った「一億総白痴化」というのはまさに的を得た言葉で、その先見性には頭が下がります。そう、今はまさに愚かな主権者が愚かな政治を選択する衆愚政治だと言ってもいいのではないかと思います。それにテレビがますます輪をかけると・・・。

大橋巨泉氏が同様の理由で民主党から参議院選に出馬することになったらしいですが、真剣に国のことを憂い、少しでもバランス感覚のある人物であれば当然のことかもしれません。私は特に民主党の回し者でもなんでもありませんが、このまま地滑り的に参議院選挙で自民党が圧勝することになれば、それこそとり返しのつかないことになるのではないかと真剣に心配しています。

私が最も怖れている小泉ブームが引き起こすかもしれない政治の暴走とは、小泉氏の唱える構造改革という美辞麗句の陰に隠れた国民生活の壊滅的な破壊です。

私自身が長い間金融業界の審査部門にいたこともあり、銀行屋の立場から少しばかり思うところを述べてみたいと思いますが、冒頭にお話した国民の意識の揺れ幅が大きいこということは、リスクという概念を使って言うと「リスクが大きい」ということになります。この場合のリスクとは「将来大変なことが起こる確率」であり、「リスクが大きい」ということは「将来大変なことが起こる確率が高い」という意味になります。そして私が推測する「高い確率で将来起こりうる大変なこと」とは、具体的に言うと「不良債権の抜本的処理に伴う国民生活の壊滅的な破壊」ということです。ではなぜそんなことになってしまうのかを少しばかりお話させていただきます。

「不良債権」、今では良く聞くようになったこの言葉ですが、実際のところ銀行の抱える「不良債権」とは一体どんなものなのでしょう? 何となくイメージは湧くかもしれませんがこれが実に難しいのです。

例えば銀行がある企業にお金を貸しているとします。しかしこの企業の経営がうまく行かず、借金の返済期日に返済ができないとします。この場合銀行側から見てその貸し金は不良債権となります。
では、別の企業では同じように経営はうまく行っていないのに、どこからか資金を調達してきて借金の返済期日には一応返済されているとします。この場合は不良債権になるのでしょうか? 今回の返済はなんとかなったけれども次回以降も間違いなく返済されるとは言い切れない・・・。難しいところですよね。

更に担保というものがあります。先のケースで今回返済はできなかったが、土地建物を担保にとってあってイザというときはそれを処分すれば貸し金は回収できるとすれば、さっきは不良債権としましたが本当に不良債権なのでしょうか? ねっ難しいでしょう? 簡単な例で説明しましたが、このように実質的な不良債権とは企業の経営状態と担保の価値という両方の側面から判断(算出)しなくてはならないのです。

戦後日本の金融界は圧倒的に不動産担保を最も確実な担保とみなして融資をしてきたという経緯があります。なぜ不動産担保がいいのか?というと、企業経営がおかしくなってきたとき、経営者が逃げようとしても担保の不動産を持っては逃げられないこと(笑:実際は笑い事ではないんですよ)。法的な整備がきちんとされていて権利関係でゴタゴタすることが少ないこと。そして日本経済の成長に伴い土地の価格も右肩上がりで上昇し続けてきたので、万一のときにも貸し金が確実に回収できること。このような理由から大口の融資案件の場合は不動産を担保としたものが圧倒的なウエイトを占めるに至ったのです。

このようなメカニズムができあがっている状況であのバブルの発生と崩壊が起こったわけです。それは直接的に不動産投機にかかわる企業に強烈なダメージを与えただけでなく、担保不動産の価格の暴落によって、不動産事業とは何の関係も無い全ての産業全ての個人においても幅広く貸し金に対する担保不足という事態を引き起こすこととなったのです。そこにバブル崩壊の余波ともいうべき不況の荒波が押し寄せてきた、さあどういうことになったのでしょうか? もうおわかりですよね。貸付先が万一のとき銀行が回収しきれない部分(含み損失)がドッカーンと増えてしまったのです。

そして土地政策の無策ぶりがこれに輪をかけ、この不況から脱出できそうな気配は現在に至るまで見えてきていません。企業経営はますます厳しくなり、土地価格=担保価値は下がりつづける。これでは銀行の含み損失は膨らむばかりです。この10年間銀行も大蔵省の指導で公的資金までも投入して不良債権を徐々に処理してきたはずなのにその額は減るどころか膨らんでいるのです。その最大の理由は担保である土地価格が下がりつづけていることにあると言って間違いないと思います。

良く考えてみてください。やっと苦労して手に入れたマイホームがどんどん値が下がっていく。一方住宅ローンの額は変わらない。一生懸命働いてもらう給料も増えるどころか減らされている。下手をすればいつクビになるかわからない・・・・。会社をクビになったらそれこそ自分も首を吊らなければならない羽目にもなりかねない・・・・。これでは将来がどんどん不安になります。

そんな中でちょっとローンを組んで新車を買おうかなんて気分になるでしょうか?ごくごく普通の感覚ならなれるわけがないですよね。将来の不安に備えて国民は皆質素倹約型の生活を指向するし、現実問題としてせざえるを得ないのです。これでは景気が良くなるはずがありません。バブル崩壊後の長引く不況の根本的な原因はここにあるのです。

それなのに政府は何ら土地価格対策を講じようとせず、目先の不良債権の処理に大量の資金を投じ、景気対策として公共工事が有効だという旧態依然とした考えにとらわれて、実際は効果が薄くかつ不必要な公共工事に膨大な資金を投じてきたのです。

それで景気は回復したでしょうか?していませんよね。それどころか銀行の不良債権額はどんどん大きくなる一方だし景気も回復しないとなれば、これまで投下されてきた膨大な公的資金は全くの死に金だったということになります。

この辺の対応を見ていると、ある袋を開けようとするとき、ちゃんと「切り口」と書いてあるのに、全く別のところから一生懸命力ずくで開けようとしている人を見るようなもどかしさを覚えてしまいます。

しかし残念ながらそのあたりの反省の声は全く聞こえてきません。政治家や役人にしてみれば所詮下々の民から集めた金です。どこにいくら使っても自分の懐は寒くなることはありません。また必要になればもっと搾り取ればいいくらいにしか考えていないのかもしれませんね。それにしても生活実感のない政治家や役人が考えることは恐ろしいですね。国民にとっては悲劇以外の何者でもありませんが・・・。

第一話はここまでにします。
この他にも日本の企業経営には特徴的なところがあります。その一つは資金調達において借入金の占める割合が高いということです。

今でこそ優良大企業は増資や各種の社債の発行などで資本市場から資金調達することが多くなってきましたが、それでもなお中堅中小企業では圧倒的に借入金で資金を賄っているのです。このため銀行が不良債権の処理を進めるということは、とりもなおさず圧倒的多数の中堅。中小企業がその影響を受けることになるということです。すなわち火の手が日本全国どの地域にも一気に広がるという危険性を帯びているということを意味しています。

二つ目の特徴は借入金への依存度が高いということとも関連してくるのですが、日本の企業は一般に利益率が低く資本の蓄積がなかなか進まないという財務構造になっているということです。

これは企業というものが、単に短期的な利益を追求するだけの共同体ではなく、末永く存続することで顧客に財やサービスを安定的に供給し、たくさんの従業員を長期的に雇用することで社会的な使命を果たす存在として期待され認知されてきたという歴史的側面もあります。また株主が個人ではなく銀行や企業同士での持ち合いという構造になっていて、あまり多くの分配を求めてこなかったということもその一因として考えられます。

端的に言ってしまえば「持ちつ持たれつ」という世界でやってきたのがこれまでの日本企業の姿だったのです。

それはある意味で業界内への企業参入を容易にし、慢性的な過当競争体質をもたらし、その結果利益率も限界的なところまで低下してしまうという傾向も見られました。ただこれも「持ちつ持たれつ」で皆が何とか共存していけるところに落着くということで、それはそれでうまく機能していたとも言えます。

つまり日本の資本主義というのはアメリカ型の純粋資本至上主義とは異質の、ある種社会民主主義的資本主義ともいうべきものでした。それは資本の論理を第一とするものの考え方ではなく、「持ちつ持たれつ」で皆が共存繁栄することを第一とするという性格であったと言えるかもしれません。

今ではそれがあたかも悪であるかのような論調が多く見られますが、本当にそうでしょうか? あのバブルとその崩壊がなかったら日本型資本主義というのはある意味で21世紀型資本主義のモデルとなり得たのではないかと私は思っています。

話を元に戻しましょう。要約すると、長い歴史の中で日本企業は利益率が低くそのため資本の蓄積も薄く、必要な設備資金や運転資金を銀行借入に依存することが多く、その際は不動産を担保とするシステムが出来上がっており、そのシステムが今も続いているということです。

このような特徴を持つ日本企業の場合、借入金の返済を収益だけで行える企業は極めて少数です。逆に言うと借入金の返済のある程度の部分を新たな借入金で賄うことによって存続しているのが実状なのです。借入金を収益のみで返済しきれないとすれば、それは厳密にとらえるなら不良債権に限りなく近いと言えないこともありません。

こうして担保である不動産の価値がどんどん下がり続ける一方で、同時に借入金を収益のみで返済しきれないという企業が大部分であるという日本の企業像と照らし合わせると、銀行の貸し金の大部分が不良債権に限りなく近いものになってしまうという惧れがあるのです。これってものすごいことだと思いませんか?

さてそこで不良債権の抜本的処理です。言葉は勇ましく、それさえすれば今まで抱えてきたウミがすっかり出て気分一新、新たなスタートが切れるような感じがします。どの程度までを不良債権と定義するかで状況は変わってしまいますが、この不況下で赤字計算を余儀なくされ、借入金の返済を収益や資本の蓄積で行えないものは不良債権であるとするなら、膨大な企業に対する貸付金が不良債権となって処理されることになってしまいます。

昨今では収益が低迷する企業に借り換え資金を提供する銀行はどんどん減っていっています(いわゆる貸し渋り)。銀行にしてみればいつ貸し倒れになってしまうかわからない融資をするくらいなら、その分国債でも買っておいた方が良いということになってしまっているのです。すなわち企業と銀行の持ちつ持たれつの関係は既に崩壊一歩手前にあるといえます。

このような状況で不良債権を抜本処理し、損失分はある程度公的資金で補てんするなどということになったら、資本の論理に立ち戻った銀行は情け容赦なくそのような企業を切り捨てるでしょう。そうなれば考えるだけでも恐ろしいほどの中堅中小企業が切り捨てられることになってしまいます。

「切り捨てる」とは倒産させるということです。それは直接的には従業員が失業者となって巷に溢れることですし、今のまま全く土地政策がない状態で担保不動産が大量に売りに出されることで、土地価格は更なる暴落をもたらします。そして土地価格の下落は更に不良債権のハードルを低くし、また新たな要処理企業群が登場する・・・。これは企業だけの問題ではなく、自分は大丈夫と思っていた個人も自宅の価格が低下して家を売ってもローンを払いきれなくなる可能性が一層大きくなります。

今考えられている不良債権の抜本的処理政策案はとは、かように新たな不良債権を生み出すメカニズムになっているのです。

先日この不良債権の抜本的処理によって発生すると見込まれる失業者数は60万人、うち再就職でかなりの部分が吸収され、最終的に失業状態のまま残るのは最大でも12万人程度という政府発表がありました。しかし民間の研究機関では失業者数は120万人との見方もあるのです。

これは抜本的処理といってもその具体的基準が明示されていないためこれほどまでの差が生じたものと思いますが、それにしても政府の見通しは甘すぎると言わざるを得ません。因みに「そごう」の倒産によって連鎖的に倒産した札幌そごうの場合、再就職率はわずか10%にとどまっているのです。

高度な知識や技術を持った人ならばともかく、一般レベルの人の場合一度職を失った人の90%がそのまま失業状態になっているのです。これは当然です。景気が良く社会全体に失業者を吸収するだけの勢いがあればともかく、長引く不況の中、明日は我が身という状況の中で一体どれだけの企業がコスト増の要因である従業員の増加を受け容れる余地があるというのでしょうか。

それでなくてもデフレ・スパイラル的症状にある日本経済にあって、このような形での不良債権の抜本的処理が実行されれば、それはもはや核分裂級のデフレの衝撃をもたらすことは必至です。もっとも頭の良いお役人もいるし、そんなことにはならないよう願うばかりですが、国民世論に抗しきれず実施されるようなことがあれば、これはもはや衆愚政治の極みということになるでしょう。

そんな状況で財政構造を改善するため景気対策の政府支出も行わないとすれば、未曾有の大恐慌に突入する可能性大です。表面的には何となくプラス面をイメージさせる「不良債権の抜本的処理」もそのやり方次第ではこんな恐ろしい状況さえ引き起こしかねないのです。その具体的なやり方さえも示されていない段階で「何でもOK!思いっきりやってちゃってください。」というのは、これはもうメチャクチャ危険なことじゃないでしょうか?

第二話ここまで

今の小泉・真紀子人気はあくまでその人物の表面的印象だけで成り立っているように思えてなりません。

<いつも自分の言葉で話す。><キッパリと言い切る。>など従来の政治家タイプと違うし、何か国民のためにやってくれるのではないかということで期待されているのだとは思いますが、田中真紀子女史などはもうやたら喋りがうまくて、その演説は講談でも聞いているような感覚に陥ってしまいますが、その中味は大半が個人をあげつらって面白おかしく批判するばかりで、それは一種のにエンターテインメントであって、人気はあるかもしれないけれども政治家の演説としてはまるで内容もなければ品位も感じられません。

小泉氏とても同じことで政策の中味で具体的なことを言っているのは従来からの持論である郵政事業民営化プログラムのことだけで、それ以外のことは語ってはいません。国民としてはもう少しクールになってその政治における姿勢、具体的政策を吟味したうえで評価する賢さがほしいところでありますな。

さて、不良債権の抜本処理に関する理論的指導者は竹中平蔵経済担当大臣ですが、彼の理論は市場型経済方式を導入することが唯一の解決策であるという、資本の論理を第一とする考えに基づいています。それは強いものだけが生き残り弱いものは退場せよ(死ね)という考え方です。

国政に関して画一的にこの原則を導入するのはいかがなものかと私は考えます。国政とは国民全体の生活と安全を守り発展させるためにあるのであって、効率を最重視する企業の経営原則とはおのずと異なるのです。市場経済方式の画一的導入は間違いなく社会的弱者と非効率な地方を切り捨てることになります。

そもそも一国の宰相が備えていなければならないのは、「何をおいても国民のため!」という信念以外に無いと私は考えています。竹中氏が青森のタウン・人ミーティングで就職先がなくて困っている女子高生に「何とかして下さい。」と言われて、「それなら自分で会社を起こして、ビル・ゲイツみたいになってください。」と返答したそうです。

これを聞いて私は愕然としました。かのマリー・アントワネットの「パンが無いなら、お菓子を食べればいいのに・・・・。」の類と同じレベルの答えではないですか・・・・。まったく国民の現実的な立場に立って考えているとは思えません。これでは自分の理想とする考え方を単に押し付けているだけ。誰もが企業家になりビル・ゲイツになれるのであったら経済担当大臣などを必要ありません。

また彼は「一時期国民の皆様には厳しい状況に直面して我慢してもらうことになるかもしれないが、それを乗り切ればバラ色の世界が待っている。」というような言葉で不良債権処理を推し進めようとしていますが、これとても本当に国民の被る痛みを理解しているのかと疑ってしまいます。

たびたびテレビに出演し自らの政策提案がいかに優れたものであるかを表明している竹中氏を目の当たりにしていると、国民のためというよりも、自らの理論を試して成功することで不朽の名誉を獲得したいのではないかと思ってしまいます。私にはどうしても彼が実際の国民経済をゲームのように考えているような気がしてならないのです。

ご自分は政策が失敗して国中が混乱してもさっさと辞任して元の慶応の教授職に戻ることでしょう。給料も仕事も社会的地位も保証されているご本人はいいでしょうが、そのツケを回された国民は一体どうなるのでしょうか?

もし不良債権の抜本処理という極めて国家的影響の大きい政策を推進しようというのならば、失敗したら腹を切るくらいの覚悟で臨んでもらいたいものです。(いったん恐慌を招いてしまえば、たかだか一人の人間が腹を切ってもどうなるものでもありませんが・・・) いつでも逃げ道が用意されているような人間にこのような大事業は任せられません。まあこの辺が慶応ボーイらしいところですかね(慶応関係者・慶応ファンの方々にはごめんなさい。)

小泉首相も竹中氏を全面的に信頼し、この件について一切お任せというスタンスではなく、もっと広くいろいろな立場の人々からこの問題についての意見を聞いて、どうすることが一番国民のためになるのかを議論を尽くして判断してほしいと願うばかりですが、果たしてどんなものだか・・・。

私も人の批判ばかりでのは能がないので、不良債権処理の方法について私なりのアイデアを出してみます。

まず、不良債権・不良債権といってもその大部分はバブル期の土地投機(ギャンブル)によって儲けようとしたものが、バブル崩壊によって塩漬けになってしまったというものが当初は大部分を占めていたのだから、この部分はキッチリ処理する。すなわち投機の失敗とみなされるものはその所有会社をつぶしてでも始末をつける。

しかし、単に土地価格の下落の影響を被って銀行の貸し渋り等で窮地に陥っている企業についてはこれを支援する。同時に土地価格の単純下落(資産デフレ)に歯止めをかけ、適正価格水準(ガイドライン)を設定する土地政策を実行する。(これ以上の担保価値の下落による不良債権の増加にストップをかけるため。)

要は投機(ギャンブル)で発生した不良債権と、それらに翻弄された犠牲者ともいうべき企業や個人に対する不良債権を明確に区別し、前者は始末し、後者は立ち直りを支援するというものです。

これは市場経済に政府が一時的に介入し、混乱した市場が立ち直るようにリードしていくというもので、竹中氏の主張とは真っ向から対立します。土地投機による不良債権とそれ以外の不良債権を区別するということに関しても、投機自体は違法ではないのですから、これだけをを悪者にするということは不平等と言われるかもしれませんが、これらの投機があったからこそ今のような混乱が起きているという事実を考えると、その責任は決して軽いものとは言えません。その意味で日本経済を建て直すためにこういう大胆な措置をとったとしても、国民は反発するとは思えません。

そのためには

1.日本経済再生のためのビジョン(どういう方法で不良債権問題を解決していくかの具体的プログラム)を明確に国民の前に示し、

2.バブルを放置した国(大蔵省)・日銀の非を認め国民に謝罪するとともに関係者に責任をとらせ、

3.明らかに転売によって利益を得ることを目的とした投機目的の投資案件については厳しく臨み、それを処分することによる損失で企業維持が困難となった企業は自己責任をとってもらい倒産という形で始末をつける。

4.自らはバブルの投機に手を染めず、バブル崩壊のあおりで実質的に負債過多になってしまっている企業や個人は救済する。

この二本柱がなければ経済再生など起こり得ないと思います。

だってそうじゃないですか。片方はバブル投機で大もうけをして大金を手にして優雅な生活している(もちろん失敗してスッテンテンになった人もいるでしょうが・・・)かと思えば、一方で自分たちはそんな投機には全く関与していないのに、その余波を受けて吐炭の苦しみを被っている企業や個人がいる。こんな正義の無い状態から脱却しなくては、国民の希望などを生まれてきやしません。これを単に市場原理に委ねてしまおうというのは、全くの無責任で味噌もクソもいっしょくたにした正義のかけらなどどこにもない悪魔のような政治と言わざるを得ません。

一時的に政府が介入してこれらを処理し、ある程度の水準まで公平感が戻った状態で市場経済移行するというのであれば私も賛成です。ただその場合も再び投機による市場の暴走が生じたときは、すぐさま政府が介入する余地を残しておかなければならないと思いますが・・・。

また今の不況の最大の原因は土地価格が下がり続けていることにあるのですから、その下落に歯止めをかける土地政策を実行することが欠かせません。

具体的には、土地に限らず財物の価格は安ければ安い方がいいということにはならないのであって、バブルという特殊要因がなかったとした場合、経済成長等から考えて現状いくらくらいが適正価格水準かを算出し、それをガイドラインとして土地の売買流通をリードしていくという仕組みをつくっていく。

場合によっては国家機関が直接的に土地を買い上げていく形もあっていいかもしれません。その後経済が活性化し買い手が現れれば、買い上げてあった土地を売却すれば投下資金は回収されることになります。今のように不良債権処理のために公的資金を補てんする形ではそれらの資金は一体どこにどう消えてしまったのか訳の分からないことになってしまいますが、そのようなウヤムヤとした状態よりもよほど良いことは明らかです。

因みに私のいた銀行も正直に言ってバブル期の土地投機(ギャンブル)によって儲けようとした案件に巨額の融資をしていました。したがってそれが失敗した以上、その責任を取って倒産(破綻)したのは当然のことです。

他にも生・損保を含む大手の金融機関やゼネコン、その他同じようなことをしていた先は山ほどあるのです。これらが損失を自力で乗り越えて生き続けているのなら何も問題はありません。しかし債権放棄を求めたり、損失を先送りして生き残っているのだとすれば、それはもうケジメをつけなければならない。倒産→従業員は失業となっても誰にも文句を言える筋合いではありません。

しかし、何度も言うようですが、それとそれらのゲームとは全く無関係でありながらその影響によって被害を被っている企業・個人とは厳密に分けて対処しなければなりません。それが正義というものです。

以上のような感じでしょうか。私のアイデアももちろん穴だらけでしょうが、少なくとも何の責任もない国民全般に巨額の痛みを強いることにはならないし、土地購入のために一時的に資金が必要となってもそれを孫子の代まで負担させるということにもならないと思います。

いずれにせよ、小泉ブームも田中真紀子ブームも沈滞した空気を打ち破るには結構ですが、なんでもおまかせになってしまうと、この日本という国は早晩滅びてしまう危険が大きすぎます。

一国の長や大臣になった以上、何よりもまず国民のことを第一に考えて己の欲を捨て、慈愛の心を持って真摯に問題解決に取り組んでこそ偉大な指導者と言えるのであって、表面的な言動や見栄えなど実は二の次三の次のことではないでしょうか。そしてその国政を運営するに当たって最も基本的な原則とは市場原理ではなく、正義を追求し貫くことに他ならないと私は考えます。

今は人気だけが先行している小泉・田中内閣が本物かどうかは、これからがいよいよ試されるときです。またこれは言わずもがなですが、私たち一人一人がどういう意思を持つかということも試されるのです。何か柄にもない話題になってしまいましたが、今の日本をボケーッと見ていると、あまりにも危なっかしい感じがしたもので、ついつい熱が入ってしまいました。

<了>