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6月22日 雨。 かなりの土砂降りです。日本全国大雨のようです。今年の北海道の6月は散々なお天気が続いています。例年なら6月は北海道が一番輝く爽やかな季節なのですが、今年はとにかく青空を見ることができませんでした。前半15日のうち「雨」が降らなかったのはわずか1日だけ。毎日毎日憂鬱な曇天・・・・。18日頃2日ほど青空が広がりましたが、それもあっという間に終わり、また雨・雨・雨であります。4月から5月は逆に全く雨が降りませんでしたし、どうもバランスというものが崩れていて、どこか極端から極端に振れるというのがこの頃の気候の特徴のような気もします。

もう一点は寒いこと。これは日照不足のせいもあると思いますが、とにかく地面が暖まらないという感じです。夜になるとグッと冷え込んで、何とこの6月も一昨日あたりまで暖房を入れていました。こんなことも以前はまずありませんでした。今年は1年のうち暖房が要らないのは7月8月の2ヶ月だけかもしれないと本気で心配しているオヤジであります。

ここのブログの更新もまたまた久しぶりです。この間何をやていたかというと、久しぶりに音楽制作に関することに時間を割くようになったのですが、その途端機材(サブ・ミキサー)が一部壊れてしまい、安くて音が良くてしっかりとした作りのものを買い求めようと一生懸命品物を探していました。この顛末はまた後日お話したいと思います。

さて、あまりの雨に「こうなったら昔懐かしい<雨>から連想される音楽でも聴くしかない!」ということで、とっさに頭に浮かんだ曲を3曲ばかりご紹介したいと思います。古い順で行きましょうか。

まずトップ・バッターは「1972年 吉田拓郎  たどりついたらいつも雨降り」



この曲は亡くなられた鈴木ヒロミツ氏(ザ・モップス)へ拓郎さんが楽曲提供したものですが、拓郎さん自身の歌うバージョンをセレクトしてみました。それにしてもこの歌詞はほんとに身につまされます。何とか辛く厳しい状況から抜け出したかと思いきや、また次の試練が待っている・・・・。人生なんてそんなもんさ。どこへ逃げたって運命ってやつからは逃れられない・・・・。そんなことをしみじみと思わされますし、現実の生活の場面を思い起こしても、「まさにその通りだ。」と思い知らされます。


さて2曲目は 「1975年 荒井由実  雨のステイション」



1975年に発表されたユーミンの3枚目のアルバム「COBALT HOUR(コバルト・アワー)」に収録された曲です。これまた名曲ですなあ・・・・・。まだまだ純な若い頃のひたむきな想いが込められていて、いつしか曲の世界に引き込まれてしまいます。頭の中に短編映画が流れるようです。

それにしてもこの「COBALT HOUR(コバルト・アワー)」もユーミンの世界観を代表するような素晴らしい曲が収められていますね。<COBALT HOUR>  <卒業写真>  <花紀行>  <何もきかないで>  <ルージュの伝言>  <航海日誌>  <CHINESE SOUP>  <少しだけ片想い>  <雨のステイション>  <アフリカへ行きたい> 全曲が荒井由実の作詞・作曲で、編曲は後の旦那の松任谷正隆氏です。小生はデビューアルバムの「ひこうきぐも」、2枚目の「MISLIM」は持っているのですが、この「COBALT HOUR」は持ってません。でも今回改めて聴き直してみて、絶対買おう・・・・・と思いました。ユーミンの初期3部作はまぎれもなくエクセレントです。

そうそう、この「雨のステイション」のモデルは、JR青梅線の西立川駅ということのようです。我が街にもこんな名曲があればなあ・・・とつくづく羨ましく思うオヤジであります。


最後の3曲目は 「1977年 イルカ 雨の物語」



伊勢正三作詞・作曲 石川鷹彦・木田高介編曲によるイルカ6枚目のシングル。実は小生あんまりイルカの音楽世界は好きではないんです。代表曲の「なごり雪」も、<懐かしのフォーク>みたいな番組では定番中の定番で、「もういいよ・・・・・。」という感じです。また作詞・作曲の伊勢正三氏についても、あまり技術も無いのに技術を前面に押し出そうとするギター・パフォーマンスが見る側からすると痛々しく、これまた定番の「22歳の別れ」もまた「もういいよ・・・・・。」 そんな感じで「南 高節」も「かぐや姫」も「神田川」的フォークもちょっと食傷気味であったのですが、今回「雨」というテーマから連想してしまったのは、「窓の外は雨 雨が降ってる・・・・」というフレーズだったんです。不思議なものです。

しかしこの「雨の物語」はあまり目立ちはしませんが、なかなかの佳曲という感じがします。「これでどうだ・・・・!」というような気負いが感じられず淡々と耳に吸い込まれていきます。あまりに淡々としているせいか、これまた短編映画のワンシーンのような曲でありながら、ユーミンのようには映像があまり鮮明に浮かんできません。まるで雨に煙った景色のような、雨粒に覆われたガラス窓から見る外の様子のようにどこか頼りない感じですが、そこがまた良いのかもしれません。

いやあ、それにしてもやっぱり昔はいい曲がたくさんあった! これは間違ってないと思うオヤジでありました。

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5月12日。雨。今日も寒い・・・・。しかし2週間ぶりの雨で、植物たちにとっては恵みの雨ですね。

しばらく間が空いてしまいましたが、忌野清志郎さんがお亡くなりになりました。謹んでお悔やみ申し上げます。やっぱりいい人は早く亡くなっちゃうんでしょうかね? 残念でなりません。

忌野清志郎、RCサクセションというと、その代表曲は「雨上がりの夜空に」であり、「スローバラード」ということになるのでしょうが、小生にとっては「ぼくの好きな先生」なんです。今のようにメイクをして唄う前の忌野清志郎であり、RCサクセションなんです。お聴きください。

1972 RCサクセション 「ぼくの好きな先生」


作詞 忌野清志郎 作曲 肝沢幅一 編曲 穂口雄右

それと小生は「さなえちゃん」も忌野清志郎が唄っていたとすっかり勘違いしていました。こちらは仲井戸麗市と加奈崎芳太郎のデュオ「古井戸」の曲で唄っていたのは仲井戸麗市でした。ただ仲井戸麗市は1979年に「古井戸」解散後、RCサクセションに正式加入し、その後1980年代のRC躍進の牽引車としてフロントマンの忌野清志郎と共に活躍していたこともあって、小生の頭の中で忌野清志郎と仲井戸麗市がごっちゃになっちゃったんだと思います。これはあの北野武も同じだったみたいで、あるテレビ番組で忌野清志郎の訃報に対するコメントで、「確か、さなえちゃんとか唄ってたんだよネエ・・・・」と言っていました。逆に言うと「さなえちゃん」という曲は、いかにも当時のRCサクセション風であったといえるのかもしれません。懐かしついでにこちらもどうぞ・・・・。

1972 古井戸 「さなえちゃん」 (作詞作曲:仲井戸麗市)


しかし忌野清志郎はやぱりタダモノではありません。目立たないところでも実に素晴らしい活躍をされていました。日本初のミリオンセラーを記録したあの井上陽水のLP「氷の世界」に収録された「帰れない二人」は作詞作曲ともに井上陽水と忌野清志郎の合作だということをつい最近知りました。小生も珍しいことにこのLPは買ったのですが、全曲井上陽水のオリジナルだとばかり思い込んでいました。ただ、「帰れない二人」という曲はあの暗い暗いLPの中で、少しホットできるような、温もりを感じさせる小曲で、この曲が入ることでワンポイントの色彩が加わったような多大な効果を生んでいたように思います。そしてそれはまさに忌野清志郎の音楽世界だったんでしょう。井上陽水一人では絶対にあの曲は生まれなかったでしょうから・・・・。

そんな隠れた名曲「帰れない二人」を作者の忌野清志郎と井上陽水が唄っている動画がありましたので、是非お聴きいただきたいと思います。

1972 井上陽水&忌野清志郎 「帰れない二人」 


初めて忌野清志郎が唄うのを聴きました。ハッキリ言って陽水が唄うよりもシックリくるような気がします。この曲は作曲はどちらかというと忌野清志郎がメインで出来上がったのではないか?という感じがします。それほどにメロディラインと清志郎のボーカルがフィットしていますね。実にいい曲です。この曲にはバックに細野晴臣や高中正義が参加しているとのことです。1990年の相米慎二監督の映画「東京上空いらっしゃいませ」の主題歌として使用されたとのこと。さもありなんと思います。

本当に惜しい人を亡くしたような気がします。ファンと言えるほど傾倒したわけではないのですが、その強い個性と音楽性は充分伝わってきていました。 しかし忌野清志郎があんなパンク・ロック風に変身したのはいつ頃からだったのでしょうかね? 小生が知っている忌野清志郎は当然メイクもしていなかったし、ヘアスタイルは丁度雨上がり決死隊の蛍原のようなマッシュルーム・カットだったような記憶があります。また最近でもメイクをしたり、ギンギラの衣装を着るのはステージ上だけで、普段は(髪型は別として)そんなにぶっ飛んだものではなく、極めて自然体だった・・・・。ということは、あの衣装やメイクは彼にとっての戦闘服だったということなのかな?

対人関係にあっては、人間誰しも多かれ少なかれ無意識のうちに鎧を着けていると言われます。忌野清志郎はそれをあえて意識的にやっていたということなのかもしれません。ただそれは音楽を表現する者としての立場に立っているときだけであって、それ以外の場面では鎧を着けていなかったような気もします。裸の自分をさらけ出すことはなかなかできるものではありません。そう考えれば、やっぱり忌野清志郎、デカイ人間だったのかなと思い知らされます。

今日たまたまアメリカの作曲家、コール・ポーターの半生を描いた映画「五線譜のラブレター DE-LOVELY」(監督:アーウィン・ウィンクラー、主演:ケビン・クライン、アシュレー・ジャド)を見たのですが、その中にも「どうせ何かに成りすますのなら、道化師(ピエロ)になりなさい。そうすりゃみんなハッピーさ。」という場面(ミュージカル・シーン)がありました。小生も無意識のうちに他者と対面する際、戦闘的な鎧を身に纏っているんでしょうかね? おそらくそうなんでしょう。だから相手も戦闘的に対応する・・・・。やっぱりまず我が身を何とかしなくちゃいけないんでしょうね。忌野清志郎と違って、小生のような小者には裸の自分をさらけ出すだけの度量はありません。そうなると鎧をピエロの衣装に変えることなんでしょうかね? それもかなり難しそうです。北風と太陽の喩えではありませんが、太陽のような暖かさを相手に感じてもらえるような人格者になれれば一番いいんでしょうが・・・・・・。

4月29日。昭和の日って言うんですか?今は・・・・。オヤジにはどうしても天皇誕生日以外の何モノでありません。新しい祝日の呼び名や、祝日を特定日ではなく何月第何週の月曜日とするハッピーマンデーなどには関心が無いせいもあるのでしょうが、全く頭に入ってきません。どこをとっても正真正銘まさに昭和のオヤジであります。

しかし今日も気温が上がりました。ローカルTVでは「Tシャツ初日」と言っていました。明日はもっと気温が上がって今年初の夏日(最高気温25度超え)になるかもしれないとのことです。つい3・4日前には雪だったんじゃなかったっけ?

さて、今日は60年代末から70年代にかけての日本の歌謡曲(この表現が妥当かどうかわかりませんが・・・・)において、特殊な位置づけと支持を得ていたジャンルがあります。それが「アンダーグラウンド」。華やかでオシャレな昼の顔とも言うべき和製ポップスや、夜の盛り場での甘い男女の恋模様を歌ったムード歌謡、それらのいわば歌謡曲のメインストリームにドカッと対峙して存在していたのが夜の顔いや闇の顔ともいうべき「アンダーグラウンド」だったのかな・・・・と思います。実のところ良くわかりません。

その代表格が今日ご紹介する浅川マキ姉さんであります。この「アンダーグラウンド」の系譜に位置づけられるミュージシャンとしては、他にはハードロック転向以前のカルメン・マキ、三上寛、日本のホセ・フェリシアーノとも呼ばれた長谷川きよしなどがいたかと思います。また森田童子などもこの系譜に連なるのかもしれません。一口に「アンダーグラウンド」と言ってもその定義付けはなかなか難しいものです。ある人は<地下深くで蠢動する音楽> <光差す地上のみで生きる者はけして出会うことのない音楽、闇の中に眼を凝らした者だけがそれを掴むことのできる音楽> などと表現しています。とにかく共通点は自らの音楽のみならず、様々なものに対してこだわりが強く、独自の美意識を持っていてそれを貫き通していること。したがって商業的な成功を第一に考えるメジャー・レコード会社との間でトラブルになるケースも多かったようです。

どの曲をとっても「浅川マキ」ワールドで、それぞれに素晴らしく、数曲セレクトするのに悩みに悩みました。その結果まず聴いていただきたいのが標題曲「かもめ」であります。

1969 浅川マキ 「かもめ」


1969年7月1日に発売された彼女の事実上のメジャー・デビュー・シングルに収められた曲です。作詞は寺山修司氏、作曲はジャズのビッグバンド「ニューハード」の山木幸三郎氏であります。石川県の片田舎出身で高校卒業後 町役場で国民年金窓口係の職に就いた女の子が、程なくして歌手を目指して上京します。米軍キャンプやキャバレーをまわり、67年にムード歌謡「東京挽歌」でレコードデビューするも音楽の方向性等で事務所と決裂。そんな頃、異才寺山修司に見出され、彼の小屋であったアンダーグラウンド・シアター「蠍座」で三日間のワンマン公演を行い口コミでその名が浸透し始め、1969年「夜が明けたら」で再レコード・デビューを果たします。

当然のことのように、この頃の彼女は明らかに寺山修司ワールドのメンバーであって、音楽部門の表現者というような立場だったような感じもします。当時のアングラ演劇ブームの中、演劇本体のみならず、ポスターなどのアート部門やら衣装などのデザイン、そして音楽などで極めて個性的なアーティストが出現し独自の世界観を表現していました。例えば、横尾忠則しかり、赤瀬川原平しかり、宇野亜喜良しかり、篠原勝之しかり、及川正通しかり、コシノ・ジュンコしかり・・・・・。

1971 浅川マキ 「赤い橋」


作詞:北山修、作曲:山木幸三郎。しかし何とも暗い曲です。ただ小生にはこの曲の印象が実に鮮烈に記憶に残っているんです。何故だか全くわかりませんが、この言葉に表せないような哀しみのようなものに圧倒されたのかもしれません。詞を書いた北山修氏自身が一番衝撃を受けたんじゃないかと想像してしまいます。それくらいフォークル時代の彼はオチャラケでいました。浅川マキ姉さんの魔力によって、そのオチャラケの底にある心の澱を引きずり出されたような感じがしてしまいます。

1971 浅川マキ 「オールド・レインコート&ガソリン・アレイ」


71年12月31日新宿・紀伊國屋ホールでの年越しライブの模様を収録したLP「LIVE」に収録されている曲です。最初の「オールド・レインコート」は作詞:浅川マキ、作曲:ロッド・スチュワート。2曲目の「ガソリン・アレイ」は作詞:浅川マキ、 作曲:ディヴ・グルーシンの作品です。ロッド・スチュワートはご存知の通りあのロック・スターであり、ディヴ・グルーシンはジャズ・フュージョン界のコンポーザー・アレンジャーの第一人者です。そんな彼等の曲に浅川マキ自身が日本語で詞をあてはめた(訳したものではない)作品です。

バックを務めるのはピアノ:今田勝、ベース:稲葉国光、ドラムス:つのだひろ、ギター:萩原信義ら当時バリバリのジャズ・ミュージシャンで固められています。そうなると、浅川マキはジャズシンガーなんでしょうか・・・・・? それにしても浅川マキの歌といえば「暗ーーい。」と思っていたのですが、このライブを聴くとそんな枠では括れないのが良く分かりました。演奏者は実にくつろいで演奏しており、観客も心の底から楽しんでいる空気が音から漂っていますね。実はここでの最大の聴きモノは浅川マキのおしゃべりです。歌と違って案外明るくて、お客さんと楽しそうに会話しています。その話し方の雰囲気もちょっと上流家庭のオシャレなお姉さん風なんですな。正直意外でした。それこそがこの曲を選んだ一番の理由でもあります。

この他にもご紹介したい曲は目白押しですが、もう数曲下記リンクを列挙しておきます。お時間に余裕のある方はぜひぜひどうぞ・・・・。

・ふしあわせという名の猫・・・浅川マキ
・こんな風に過ぎて行くのなら
・ちっちゃな時から・・・浅川マキ
・裏窓・・・浅川マキ
・浅川マキ  朝日楼~朝日のあたる家~ "The House of the Rising Sun"
・浅川マキ - ピアニストを撃て (1971)
・夜が明けたら・・・浅川マキ

しかし浅川マキの歌を聴いていると、歌手としての基礎技術という視点ではある意味未熟なのかなとも思わされます。しかしそれを越えて余りある表現力というものが彼女にはある。それは間違いありません。それがそのあたりの流行歌手などとは存在感が桁外れに違う最大の要因であります。単純な小生などはすっかり浅川マキワールドに引きずり込まれてしまっています。そういえば高校のジャズ研の先輩が同級生のフォーク・グループにオリジナル曲を提供していたのですが、その曲の雰囲気がやけに大人びているなあと感じてはいたのですが、良く良く思い出してみると、それは浅川マキワールドに近いものだったような気がします。先輩は浅川マキの音楽に当時からしっかり影響を受けていたんだとやっと気が付いたオヤジでありました。

最後に「浅川マキ」とその音楽について、実にしっかりと分析し我々にもわかりやすく解説してくれているHPを見つけました。このサイトの記述を読むと、より以上に味わい深く「浅川マキワールド」を理解できるかもしれません。よろしければどうぞ・・・・。

まこりんさんのサイト 「歌謡曲の砦 浅川マキに思うつれづれ」



4月28日。晴れただし寒風強し。庭の水仙もすっかり咲きました。と思ったら突然の雪で水仙や草花もさぞかしビックリしたことでしょう。特に十勝の中札内村(確か田中義剛の花畑牧場のあるあたり)ではこの5月直前のこの時期に何と一日で67センチもの積雪になった・・・・。同じ北海道に住む人間でありながらも、これにはビックリであります。幸いこちらでは積雪になることはありませんでしたが、今朝方も雪が舞いました。この時期の降雪は35年ぶりとのこと・・・・・。それで明日からは20度近くにまで気温が上昇すると言うんですから、まるでジェットコースターに乗っけられているようなもんです。

世界が豚インフルエンザで騒然とし始めましたね。今回はメキシコ発でしたが、アメリカと国境を接しているメキシコで起こったことで、隣国アメリカが巻き込まれ、患者数では既にメキシコを上回りそうな勢いです。アメリカは良くも悪くも世界の中心ですから、そこから世界各地にウイルスが広がるのは避けられそうにありません。今回の新型インフルエンザは毒性が低いというのが救いですね。何とか沈静化に向かって欲しいと願うばかりです。しかしそんなニューヨークでB747旅客機がマンハッタンを超低空飛行して「すわ!9.11の再来か?!」とパニックが起こった・・・・。と思ったらその飛行機は何とエアフォース・ワンで、PR用の写真撮影を行なっていたとのこと。しかしそれはニューヨーク市に伝えられていなかった。アメリカ政府も何を考えてんだか。どこの国も中央省庁の役人の世間知らずぶりは共通のようであります。

結構世界的には大変な時期に、「こんな脳天気なことをやっていていいのか?」という思いが頭を掠めないこともないのですが、それを振り切ってまたしても昔の歌謡曲をご紹介しようと思います。ここのところ洋楽を離れてすっかり歌謡曲にハマリ込んでいますが、もう少しだけ紹介しておきたい曲があるので、キリの良いところまで・・・・ということで。

本日ご紹介しますのは、1971年日本国中を席巻した ハニー・ナイツの「ふりむかないで」であります。この曲はエメロン・シャンプーのCMソングとして1971年から72年のテレビから流れなかった日はないのではないか・・・・?という次第で、誰もが一度ならず必ず耳にした曲。その意味ではレコード売上などとは別の意味で、当時(ひょっとしたら日本の音楽史上)国民に最も認知された曲だったのではないかと思うとります。

1971 ハニー・ナイツ 「ふりむかないで」

hunnyknights01.jpg  以下をクリックしてお聴きください。
  Youtube:ハニー・ナイツ ふりむかないで
  
  作詞:池田友彦 作曲:小林亜星 編曲:筒井広志



当時を知っている方なら、「ああ、あれね。」という感覚かと思います。街頭で道行く女性に「ちょっとふりむいてもらえますか?」とマイクを向け、その反応をそのままテレビで流すエメロン・シャンプーのCMは画期的なものでした。TVというメディアに「ど素人」が出ることなど考えられなかったあの時代に、本当に街を歩いている普通の女の子が登場するということは斬新この上ないことでした。ヤラセがあったのか無かったのかはわかりませんが、多くのケースではいきなり声をかけられた驚きと、恥じらいいに満ちた反応が多く、素人ならではの新鮮さが間違いなくありました。でも「後姿の素敵な貴女」に声をかけるのですから、振り返ったら「おっと、ゴメンナサイ・・・・」というケースもあったのではないかと余計なことを考えるオヤジであります。そういえば「バック・シャン」なる言葉もありましたねえ。あれもこのCMが火付け役だったのかな・・・・?

さて、CMの斬新さはもとより、実は楽曲としてもこの「ふりむかないで」はなかなかのモノではないかと思います。曲自体は16小節ワンコーラスで、それが延々と繰り返されるというシンプルなものなのですが、次から次と背景の土地を変えていく(ご当地ソング的)歌詞とも相俟って、ちっとも飽きさせないんですね。ある意味12小節ワンコーラスで延々と歌われるブルース形式のようでもあります。作曲者は小林亜星。さすがのお仕事であります。因みにこの曲はご当地ソングとして72番まで歌詞があるそうです。(日本記録モノかもしれない) アルバム・バージョンでは12番までが録音されていて、シングルでは6番まで・・・・ということらしいです。(しかしEP盤のレコードジャケットには、歌詞だけは9番まで書かれているという話も・・・・。)

それにしても、「ふりむかないで」というタイトルの名曲は結構ありますね。小生の知っているだけでもザ・ピーナツ、シモンズにそれぞれありますし、かなり後になって角松敏生なんかの曲にもあるようです。それぞれが結構名曲だったりするのも面白いところです^^。

最後に歌っている「ハニー・ナイツ」ですが、これって日本の歌謡曲ならではのムード歌謡グループなのでしょうか?メンバーは葵まさひこ(リードシンガー)、宍戸二郎(セカンドテナー)、赤間寛(バリトン)、野村忠久(バス)の4人編成。編成を見ると、和田弘とマヒナスターズや黒沢明とロス・プリモスなどのムード歌謡グループと言うよりも、合唱畑出身のダークダックスやデューク・エイセス、ボニージャックスなどのコーラス・グループに近い存在だったのかもしれませんね。ただ、歌謡曲としてヒットしたものは残念ながらほとんど無く、多くはCMソングであり、アニメや特撮モノの主題歌で名曲を残しているようです。 「サスケ」の主題歌や「妖怪人間ベム」の主題歌を歌っていたとは知りませんでした。それから放送禁止曲とされていた「オー・チンチン(作詞:里吉しげみ、作曲:小林亜星)」を歌っていたのも彼らだったんですネエ・・・・。

いずれにせよ、この曲は当時の日本の明るい面を思い出させます。しかしそれとは間逆の暗ーい暗ーい楽曲も根強い人気があったんです。次回はそのあたりなどを・・・・。


4月14日。早いもので4月ももう月半ば・・・・。庭の日陰に残っていた雪も完全に消えてなくなりました。雪解けは嬉しいのですが、雪がなくなると見えてくるのがゴミ。雪の季節にはその姿が見えなくなってしまうためか、あまり罪悪感を感じずにゴミを捨てる輩が多いということであります。「目先目に見えなければ気にしない・・・・。」というような人間の小狡さみたいなものが、雪解けと共に醜い姿を晒し出します。そういう意味では北国の春は生命の息吹と共に、どこか人間というものの醜悪さも感じさせられます。今日もモラルの低い輩が道端に捨て割れてしまった栄養ドリンクのガラス瓶の破片の後始末をしたオヤジでありました。

わが庵の小さな庭にも、昨秋植えた球根から可愛らしい草花が芽を出し花をつけていました。雪が消えて間もない時期に花をつけるのですから、雪ノ下にありながらも既に芽を出して静かに逞しく成長していたんでしょうね。生命力とは大したものです。

わかりずらいですが、写真は左から クロッカス、スノーフレークです。

croccas01s.jpg  snouflake01s.jpg



さてと、今日も懐かしい70年代の日本の歌謡曲をご紹介したいと思います。今日はちょっと大人の歌です。ちょっと渋めの選択で、坂本スミ子さんの「夜が明けて」であります。

1971 坂本スミ子 「夜が明けて」


いやあ何ともおスミさんのメイク、特に目の周りはすごいですね^^;。ちあきなおみのアイメイクと通ずるところがあるようです。これもまた時代だったのでしょうかね。

この曲は作詞:なかにし礼 作曲:筒美京平。やっぱり筒美京平さんの作品だった・・・・。
この時代は演歌以外のいわゆるJ-POPのリード役は筒美京平さん以外にはなかったということを思い知らされます。その後都倉俊一氏など「スター誕生」系の作家さんたちも活躍するのですが、60年代後半から70年代前半はまさしく筒美京平氏の黄金時代だったと言えそうです。しかしこの曲は筒美京平氏の作品としてはちょっと異色という感じもします。聴いた第一印象は「ん?これはフォルクローレか・・・・・?」 当時はサイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」で、小生などの中学生もフォルクローレの雰囲気というものを知っていたので、その匂いは聴いた瞬間わかりました。まさにアンデスの風の匂いです。いかにおスミさんが「ラテンの女王」と言っても、それはマンボやルンバといった世界のノリノリの音楽であって、同じ南米でもいきなりルクローレとは・・・・。しかしそれを日本の歌謡曲に持ちこんで結果的に見事に融合させてしまっている・・・・・。見事の一言です。本当に頭が下がります。

作詞はなかにし礼氏で、男女の別れの様子を描いたものですが、なかなかこういう感じの楽曲はあるようでなかったような感じがします。よくよく歌詞を聴いていると、実に大人の世界のお話であります。「ベッドの抜け殻」「枕に残るあの人の髪」「灰皿に残るあの人の吸殻」「割れた手鏡」「あせた唇を噛んで切ったルージュの赤」・・・・などなど使われている言葉が実に色っぽく、まさしく大人的です。これがなかにし礼ワールドなのかもしれません。

さて歌っている坂本 スミ子さんですが、この曲のヒットの後小生が彼女の活躍を知ったのは、1983年に主演した映画「楢山節考」で緒方拳演ずる息子に背負われて捨てられていく老婆役を演じたときでした。またそれ以降についてはほとんど芸能界から引退したような形になっていたように思います。ただついこのあいだNHKの「スタジオパークからこんにちは」にゲスト出演されていて、大阪のおばちゃんここに在り・・・という感じを受けました。お元気でした。

おスミさんは学生時代から声楽を学びプール女学院高等部卒業後、1955年(S30)からNHK大阪放送合唱団員として2年間クラシック畑で活躍したものの、合唱よりもソロを歌いたいという自身の思いもあって、大阪キューバン・ボーイズの近藤正春の勧めもあり、ラテン歌手として独立・デビューします。しかしなかなか芽が出ず自殺未遂を図ったこともあったとのこと。その後1959年12月、アイ・ジョージと共に、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手を勤めたことで一躍名が知れ渡り、「ラテンの女王」との異名を取る人気歌手になっていきました。1961年から始まったあのNHKの名作テレビ番組「夢であいましょう」の主題歌を歌っているのもおスミさんです。

歌手としての大ヒットはこの「夜が明けて」が最後くらいかもしれませんが、あの「戦争を知らない子供たち」を最初に歌ったのはおスミさんだったとのことのようです。またあのゴッド姉ちゃん和田アキ子が若い頃師事していたのがおスミさんだっとのこと。いかに大物だったかを知らしめるエピソードですね。

また女優としても大活躍されました。1964年頃から映画出演し、今村昌平監督作品では欠かせない常連役者だったようです。そしてあの1983年の「楢山節考」。この作品は大島渚の「戦場のメリークリスマス」を抑えて第36回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞したわけであります。しかしそんな彼女を待ち受けていたのは、大麻騒動(大麻を友人のカメラマン《なかにし礼の弟》に譲渡したという疑惑)でした。結局この事件で彼女は書類送検されるに至り、芸能界の表舞台から姿を消す形になります。

現在は夫の母の後を継いで、聖母保育園幼稚園(熊本県熊本市)の園長として活動する一方、歌手・女優業を続けていらっしゃるようです。それにしてもおスミさんは御年73歳。波乱万丈の人生を送られたにもかかわらず実に若々しかったです。