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4月10日。曇り。気温は17度ともう春から初夏へという勢いです。とうとう我が家の小さな庭の冬囲いも取り払われました。玄関先に置いてあった除雪用具もガレージへお引越しです^^。そういえば今年は日中暖かく夜急速に冷え込むということが少なかったせいか、春先の恒例行事である道路脇の氷割りをせずに済みました。いよいよ北海道も本格的な春です。根雪が消えたかと思ったら、我が家の庭にも小さな小さなクリスマス・ローズの黄色い花が一輪咲いていました。生命力とは実に偉大なものです・・・・・。

ここ何回か、いわゆる外人タレントの曲を紹介してきましたが、その最後にこの曲をご紹介したいと思います。それはマギー・ミネンコの 「涙の河」。

1974 マギー・ミネンコ 「涙の河」


作詞:橋本淳 作曲:中村泰士 両氏の作品です。中村泰士氏と言えば、細川たかしの「心のこり」や「北酒場」などのヒットを出していますが、この「涙の河」は実に素敵なバラードだと思います。良く良く聴いてみれば、「心のこり」や「北酒場」なども既存の歌謡曲とは一味違う軽快なポップさと言いましょうか、コブシの利いたロカビリーといった印象があります^^。

この「涙の河」ではバッキング・サウンドが実にクリアに耳に飛び込んできます。まずはワウを加えたギターのチャカチャカ・チャカチャカというカッティングが流れ、、コンガのパーカッシブなリズムがそこに加わり、更にストリングスかぶさってくる感じは、当時のフィラデルフィア・サウンドといわれるような流行りのソウルミュージック的なサウンドで、それまでの日本の歌謡曲の枠を超えたものという感じがします。そこにマギー・ミネンコのちょっとハスキーなボーカルが実にいい感じでマッチしていて、何とも耳に心地よく、日本の歌謡曲を超えたワールドクラスの曲となっているような気がします。(褒めすぎでしょうか^^)

マギー・ミネンコはこの曲の前に「燃えるブンブン」というポップでパンチの効いたホット・ロッド・ソング(車やバイク曲の意味)をリリースしてスマッシュヒットを飛ばしていました。よければこちらもどうぞ・・・。

1974 マギー・ミネンコ  「燃えろブンブン」


途中まででしたが、懐かしいと思われた方も多いのではないでしょうか。

前回ゴールデン・ハーフを企画モノのお色気グループと書きましたが、それはある意味大衆の求めているものだったのかなと思いました。テレビ文化が急膨張していく時代にあって、彼女たちはプロとしての歌手としてではなく、まさにテレビにおけるバラエティ・タレントとして番組にスパイスを効かせる名脇役として実に貴重な存在だったのだろうと思います。そしてそれは男女の性別を超え、年齢を超えて現在にも至っています。いわゆる外人枠というやつです。

これら「芸人的外人」のルーツとも言えるのが、このマギー・ミネンコではなかったでしょうか。ゴールデン・ハーフあたりまでは、制作側にも遠慮がありましたが、それからたかだか3年程度で日本のテレビは実に横柄になりました。制作側の思うがままにタレントを使うようになっていきました。そのような状況の中でマギー・ミネンコは、あの和田アキ子(ゴッド姐ちゃん)の「うわさのチャンネル」(NTV系金曜夜10時台)で初お目見えしました。

この「うわさのチャンネル」ですが、あれは一体何だったんでしょうね? 今からふり返っても、ドリフターズのような綿密に練り上げられたコントで笑いをとるというものではなく、ほとんどがアドリブ、ハプニングで笑いをとるという、実にゲリラ的(いい加減)な番組だったような気がします。他のレギュラー出演者は、かの力道山と死闘を演じたデストロイヤー、あのねのね・せんだみつお・湯原正章・木の葉のこ・・・・・・etc etc。さらにはタモリがメジャー初レギュラーとしてここから実質的なデビューを果たします。その後所ジョージなどもここからメジャーになっていったことを考えると、何が何だか良く分からないんだけれども、制作側が意図したか否かは別にして、異才を発掘して紹介していったという意味では、後代に多大な影響を与えることになったエポック・メーキング的番組だったと言えそうです。

そんな番組「うわさのチャンネル」の中で、これまた訳が分からないんだけれども、つんつるてんの着物を着て、右に左に走り回り、ボケたおし、決め台詞「乳もめーッ!」という過激なキャラクターで突っ走っていった外人の女の子がマギー・ミネンコでありました。「乳もめーッ!」と言っても、それはお色気とは全く結びつかない喧嘩の口上みたいなもので、笑うしかないという何とも強烈な個性でした・・・・・。
(マギーの後継者として入ったシェリーは「ケツ出せーッ!」でしたが、マギーほど開き直った感じがなかったかな・・・・・。)

マギー・ミネンコ(本名Margaret Petrovna Minenko)はロシア系ハーフ(父:ロシア 母:日本)で、その後日系人と結婚して子供3人のお母さんとして、現在ロサンゼルスに住んでいらっしゃるようです。
おっかない太ったロシアの母親像をイメージしています。幸せだといいな・・・・。

4月9日。昨日は花祭り(お釈迦様の誕生日)でしたね。もうすっかり春です。今日は最高気温が15度くらいにまで上がりました。桜も例年に無く4月末頃から咲き始めそうとの予想が出ています。小生が10年前に東京からこちらに戻ってきた頃には、ゴールデンウイークを過ぎても桜はまだ咲いていませんでした。桜が咲いてその後梅が咲くんです。面白いですネエ。

今日は夕方あたりから急に風が強くなって、南風がピューピュー吹き荒れています。東京なら春一番というところでしょうか・・・・。

さて、春先でもあり小生の自律神経もうまく対応し切れず、持病が疼き出しなかなかブログの更新もままなりません。が、今日はちょこっとだけ更新しておこうかな・・・・と。

今日ご紹介するのは、1970年代の一時期を駆け抜けた不思議な企画モノのグループ、ゴールデンハーフです。曲はなんと言ってもデビュー曲の「黄色いサクランボ」なのでしょうが、その音源が見つからなかったこともありまして、一番セールス敵に成功した5枚目のシングル「チョット・マッテ・クダサイ」と、3枚目のシングル「バナナボート」のB面だった「レモンのキッス」であります。

「おいおい何でまたゴールデン・ハーフなんだい?」という声が聞こえてきそうです。まさに企画モノのグループで歌もうまくないし、ほとんどがカバー曲だし・・・・。ただ、聴いているとやはり「自分はこの時代を生きたんだなあ・・・。」という実感がわいてきます。下手は下手なりに実に個性的といいますか味があります。まずはお聴きください。

1971 ゴールデン・ハーフ 「チョット・マッテ・クダサイ」


いや、本当に下手くそですねえ・・・・。歌の出だしはエバちゃんですね。ユニゾン部分でも声が合っていないし(笑)。録音し直す時間もなかったのでしょうかね。

ゴールデンハーフ(Golden Half)は、1960年代後半から70年代前半にかけて日本の芸能界を駆け抜けたメンバーの全員がハーフの女性アイドルグループでした。当時の日本の芸能界にはどこか外国人に対する憧れみたいなものがあったように思います。あのフランス人形のようなダニエル・ビダルに始まって、ベッツイ&クリス、ロザンナ・・・・。そして高度成長によって経済的に自信を深めると、今度は外国人のお色気を手に入れようという路線に出て行きます。しかしいきなり海外のセクシー・アイドルを引っ張ってきて日本を本拠地にして活動させるほどの力はありませんでした。そこで考え出したのが、日本人と外国人のハーフで日本に住んでいる若い女の子を集めてセクシー路線で売り出すというものではなかったかと思います。このあたりに当時の日本人が外国人に対してどこかひけ目を感じている部分と、逆にそれを打ち消そうとするかのように外国人を性的欲望の対象として商品化するというようなアンビバレントな感情が見え隠れするようです。

ではもう一曲。1971 ゴールデン・ハーフ 「レモンのキッス」

さてこのゴールデン・ハーフ1970年9月、スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」をカバーしてデビューしました。結成当時は5人だったのですがすぐエリーが抜けて4人組になります。この4人時代が人気絶頂期でした。その後メンバーのリーダーだった小林ユミが抜けて3人となり、翌1974年に「メロンの気持」を最後に解散しました。

メンバーは次の通りです。

・エバ(エバ・マリア・バスケス、1953年12月10日生) スペイン人(父)と日本人(母)のハーフ。
・マリア(マリア・エリザベス、1955年4月30日生) 札幌生まれのアメリカ育ち。アメリカ人(父)と日本人(母)のハーフ。父は当時FBI職員だったそうです。ゴールデンハーフ解散後、森マリアの芸名で女優として活動しましたが、90年代半頃に芸能界引退。
・ルナ(高村ルナ、1952年9月18日 - 2004年3月6日) 神戸市生まれ。ドイツ人(父)と日本人(母)のハーフ。ゴールデンハーフ解散後は本名の高村ルナで女優として活動。日活ロマンポルノに主演したのも鮮明に記憶に残っています。しかし残念ながら2004年3月6日、癌のためホノルル市内の病院でお亡くなりになったということです(享年52歳)。
・ユミ(小林ユミ、1950年8月18日生まれ) イタリア人(父)と日本人(母)のハーフ。ゴールデン・ハーフのリーダー。1973年春に脱退。

このゴールデン・ハーフに続けとばかりに、1972年日本人の女の子のセクシーグループとして「ザ・シュークリーム」が誕生しました。メンバーはみなスクールメイツ出身。ワイルド・ワンズの加瀬邦彦が作曲した「甘い罠」などという結構ポップな曲を歌っていたのですが、レコードは全く売れなかったようです。でもお色気グループとして「芸能人水泳大会」などでは引っ張りだこだったような記憶があります。

こちらのサイトで貴重な貴重な「甘い罠」の音源を一部だけですが聴くことが出来ます。よろしければどうぞ・・・・。
<☆昭和の名盤!アナログ日記☆ >

こちらのメンバーはグループ解散後けっこう活躍されていました。
・谷上いく子 後に演歌歌手「北原由紀」で再デビュー。
・ホーンユキ 女優に転身。ショーケンの「傷だらけの天使」などにレギュラー出演。
・甲山暁美 人気モデルに転身。
・親谷邦子 「あのねのね」の清水国明と結婚し「清水クーコ」の名でバラエティ・アイドルに。しかし病魔に侵され30代の若さで亡くなられてしまいました・・・・。

どちらも猛スピードで芸能界を駆け抜けていった感じがあります。やはりお色気グループはキワモノなのでしょうか・・・・。花の命は短かかった・・・・。

4月3日。いよいよ新年度ですね。この経済環境下でかつ年度替りともなれば、皆さんも何かとお忙しいことと思います。しかし小生は年度替りも何もありません。一日一日が流れていくだけであります。それも淋しいような気もしますが致し方ありません。WBCをライブでテレビ観戦しようと夜型の生活パターンから昼型へと変えようと努めてきたのですが、これがなかなか大変で、小生の自律神経がなかなか順応してくれず、いつまでも時差ボケ状態のような感じでブログを更新する気力もありませんでした。やっと少し安定してきたかな・・・・というところであります。

さて春の高校野球も終わり、今日からプロ野球も開幕しました。残念ながらダルビッシュ対岩隈対決は、相変わらずの立ち上がりの悪さでいきなり3失点のダルビッシュの完投負けで終わりました。WBCの韓国戦と同じような展開で結局は負け・・・。ダルビッシュも試合への入り方をもう少し何とかしないと、いくら素晴らしいボールを持っていても勝負では負けてしまうことが過去にも多々ありました。それほどファイターズの打線が貧弱だとも言えますが・・・・。(ダルビッシュが投げるときに打てないという歴然としたデータがあります。)

それにしても暖かくなってきました。今日なんかは初めて最高気温が2桁、10度を超えました。燦々と陽光が降り注ぎいかにも「春」という感じがここ北国でもやっと感じられるような季節になりました。ということで、今日はちょっといつもと時代は変わりますが今日という日に一番ピッタリときたこの曲をご紹介したいと思います。それは・・・・

1978 南沙織 「春の予感 I've been mellow」

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しかし、なんとも大人っぽくなった南沙織嬢ですねえ。同時期にデビューした小柳ルミ子・天地真理らと共に "三人娘" とされ、当時のアイドルの代表格でしたが、小生が一番好きだったのが南沙織でした。歌はそんなにうまくないし、ずば抜けて可愛いというわけでもありませんでしたが、長い黒髪と日焼けした肌の健康的なイメージがとても良かった・・・・。

小生にとっての南沙織は、デビューした1971年当時の彼女であります。デビュー曲は「17才」。

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このレコード・ジャケットと同じグラビア写真があって、それを切り取って下敷きに挟んでおりました。まさにこの写真。カニの絵柄の白いTシャツに長い黒髪・・・・。ニキビ面の中学生が授業中その下敷きを眺めながらニヤニヤしていたわけです。1971年、1972年のブロマイドの年間売上は第1位ということからも、小生のようなニヤけたファンが多数いた・・・・ということなのでしょう(笑) 彼女の最大の魅力はナチュラルさでした。小柳ルミ子は宝塚あがりの優等生で勝気さが端々から滲み出ていたし、天地真理は良くも悪くも作為的に作られたアイドルという感じでどうもシックリきませんでした。

1971年の春、本土復帰前の沖縄から正式に来日してレコード・デビューした彼女は、ある意味で沖縄返還の象徴的な存在になったと言う意味でもどこかしら強い運を持っていたような気がします。しかしそんな彼女を見つけ出したのは、琉球放送のテレビ番組にゲスト出演したヒデとロザンナのマネージャーだったということのようです。彼が持ち帰った南沙織の写真が新人発掘にやっきとなっていたCBSソニーの関係者の目にとまって、トントン拍子でデビューとなるのですから、やはり強運の持ち主です。

そんな南沙織は「日本におけるアイドルの第1号」と評価されることもあるようです。そして若さや生命感に溢れた歌詞と、歌謡曲とポップスが融合した新感覚なメロディ(筒美京平氏による)は、日本の新たなポピュラーミュージックの道を切り開いたものといえるかもしれません。その意味では今J-POPと呼ばれている音楽ジャンルは南沙織の「17才」から始まった・・・・と言えなくもないのかなと思うとります。

でも歌は本当にあまりうまくなかった・・・。この「春の予感 I've been mellow」は尾崎亜美の作詞作曲によるものですが、ご本人が歌ったもののほうがシットリしていて良いかもしれない・・・・。

尾崎亜美 「春の予感~I've been mellow」

^ω^

3月27日。このところ暖かいのか寒いのか分からないようなお天気が続いています。午前中などは晴れの時間が多く部屋は温室状態になるのですが、風は強く外に出ると結構寒かったりします。午後から夕方にかけては雲が多くなり時折雪も舞います。既に列島各地で桜満開の便りが届いている一方で、こちらでは雪の華が舞っています。春近しされどまだ遠し・・・・といった感じです。

さて、先日は和製ボサノバ・デュオとして期待された「ヒデとロザンナ」をご紹介しましたが、日本の歌謡曲界は60年代末から70年代初頭のこの時期、ある意味方向感覚を失っていたような感じがしないでもありません。テレビの普及がグループ・サウンズのブームをもたらす一方あっという間にそれも去り、ついで第一次フォークの台頭。根強い演歌を除けば、その他の歌謡曲といえば新たなポップスを模索していたような感があります。そのせいなのか外国人歌手がやけに多く登場します。ベッツィ&クリス、ゴールデン・ハーフであるとか、ヒデとロザンナ、欧陽菲菲 etc etc。そしてその後は南沙織・小柳ルミ子・天地真理といった女性アイドル路線に走っていきます。

そんな混沌とした中、実に奇妙なグループが登場し、あっという間に消えていきました。そのグループが<平田隆夫とセルスターズ>でした。

小生くらいの世代の人間ならおそらく覚えているだろうという曲が「ハチのムサシは死んだのさ」であります。実際に曲を歌えるかどうかは別として、「あー、あの曲ね」と答えるのではないかと思うほど、強烈なインパクトを持ったシュールでありながら妙に明るい曲でありました。で、本日ご紹介するのはその「ハチのムサシは死んだのさ(1972)」の前年に発表された「悪魔がにくい」であります。

1971 平田隆夫とセルスターズ 「悪魔がにくい」



1971年に発売された彼らのデビュー曲にあたるこの曲は、翌1972年の2月にはオリコン1位に輝き、その後ロングセラーを続け累計でミリオン・セラーとなりました。実に不思議な味わいを持った曲であり、グループでありました。セルスターズは明らかにグループサウンズではありませんでした。またフォーク・グループでもありませんでした。ピンキーとキラーズのようなポップ・グループともちょっと肌合いは違っているし、あえて言えば黒沢明とロスプリモスなどとは違う新しいタイプのムード歌謡グループだったのかもしれません。

しかし別の側面から見れば、自分たちで曲を作って演奏しているのだから、フォーク的でもありニュー・ミュージック的と言えないこともありません。ルックス的にはパンタロンにトンボ眼鏡やヒゲや長髪・・・。どちらかと言えばアメリカのフラワー・ムーブメントに乗っかったようなアンダーグラウンド的、ヒッピー的なキャラクターでありました。スタンス的にはフォークに近かったのかもしれませんが、楽曲自体はポップスど真ん中・・・・。

実はリーダーの平田隆夫氏が目指したものは、日本版セルジオ・メンデス&ブラジル66だったということらしいんです。小生も以前ご紹介しましたが、確かに当時セルジオ・メンデス&ブラジル66の音楽的先進性は目を見張るものがありました。多分平田隆夫氏はものすごい憧れがあったのではないかと推測します。その気持ちも音楽人としては充分理解できるような気もします。

実際グループのメンバー構成は全くセルジオ・メンデス&ブラジル66と同じです。女性のツインボーカルにバックが男性3人。リーダーはセルジオ・メンデスでピアノ。セルスターズはセルジオ・メンデスの位置に平田隆夫氏が入っているという構図です。そして平田隆夫氏はセルジオ・メンデスと全く同じ形のヒゲをはやしているんですな。それほどまでにセルジオ・メンデスに心酔していたのかな・・・・と想像します。

しかし類似点はそこまでで、姿かたちで言えばメインになる女性のツインボーカルからして全く別物でありました。丸メガネにおでこを出した三つ編み風のヘアスタイルにカーボーイハットといったスタイルの「みみん あい」さん。もう一人の女性ボーカルの「村部レミ」さんもどう見てもラテン(ボサノバ)的なイメージとは重なりません。それどころかその真逆・・・・。これでセルジオ・メンデス&ブラジル66を真似たと言われても俄かには信じられない・・・・。そんな点も全く不可思議であります。

では、曲のほうはどうだったのか?というと、セルスターズはセルメンの代名詞とも云える「マシュケ・ナダ」をカバー、その他のセルメン的ポップス曲もカバーしているらしいのですが、それだけでなく他のスタンダード・ナンバーや「レット・イット・ビー」、更には「ある愛の詩」などもカバーしているんですな。もうこのあたりをみても何を目指しているのかわからなくなってきます。

そして実際の彼等の出すサウンドですが、確かにコンガやラテン・パーカッションをリズムに取り入れてはいるものの、メロディラインが実に日本歌謡曲的でそれが強く前面に出ているためトータルとしてラテンぽさが感じられないし、ましてやボサノバ的な繊細なモダンさなどとは全く別物・・・・。逆に言えばそれほどまでにオリジナリティ・個性が強烈なんです。それはそれで実に素晴らしいことなのですが、平田隆夫氏ご本人にとっては満足できるものではなかったのかもしれませんね。一生懸命洗練されたセルメン的な音楽を志向しながらも、自らの持っている日本的な音楽的ルーツからどうしても抜け切ることが出来なかったというディレンマがあったのかもしれません。だからこそ、これだけ高いオリジナリティと演奏技術があったにもかかわらず短命に終わったのかもしれません。

でもやはり優れた音楽は支持される・・・・。この「悪魔がにくい」が100万枚を越えるミリオン・セラーになったのも、間違いなくその音楽が多くの人にしっかりと評価された結果であると思ったオヤジでありました。

3月24日。曇り時々晴れ時々雪。今週はまた寒さが戻ってきました。と言っても本格的な冬への逆戻りというものではなく、まさに三寒四温という感じです。でもついこの間までは本当に暖かく、どんどん雪が溶けていたのですが、ここに来て昨日も今日も雪が降るくらいに本当に寒いです。

WBCは本当に劇的な幕切れで優勝。良かったですね。暗い日本社会に久々に明るいニュースでした。それにしても独占放映権を獲得したTBSの実況中継のアナウンサー(林 正浩)は本当にヒドイものでした。一生懸命になって熱くなるのはわかりますが、何と言っても選手の名前を間違えすぎです。岩村と岩隈がゴッチャになったり、今出ている選手の名前すらしっかり把握できないまま思いっきり間違えてアナウンスし、解説の槇原・清原・佐々木に訂正意される始末。当然相手チームの選手などは、選手交代があった後などは9割方間違っていました。記録の紹介などでも間違い連発ですし、テレビ画面を見ていれば素人にもわかるインコース・アウトコースについても正反対のことをしばしば言っていました。こんなアナウンサーがスポーツ実況のプロだというのですから、TBSもお粗末なものです。せっかくの大試合、もう少し放送する側もしっかり勉強して正確に視聴者に情報を提供していただかないと・・・・。あれほどまでに選手名を間違えるなどのミスを聞かされ続けていますと、見ているほうもイライラしてきてせっかくの試合の醍醐味を確実に減じてしまいます。選手の活躍もかすんでしまうほどの実況アナの体たらく。この点に関してはTBSの猛省を求めたい気持ちのオヤジであります。

またしても前置きが長くなってしまいましたが、今日も昔の日本の歌謡曲をご紹介したいと思います。60年代末から70年代にかけて歌謡曲界にポップな感覚をもたらしてくれたこのデュオ。そう「ヒデとロザンナ」であります。正直言って小生が初めて目にしたイタリア人女性はこのロザンナだったように思います。

この頃くらいから外国人の日本への進出というのが顕著になってきましたが、そんな中でもドサ回りの営業として日本を訪れるのではなく、日本を活動の本格的な舞台にするような外国人タレントが増えてきます。以前ご紹介したダニエル・ビダルなどもその草分け的な存在でしたが、日本人とのコンビで活躍するというケースはほとんど無く、その意味では「ヒデとロザンナ」という男女のデュオはとても珍しく新鮮なものでした。

今日ご紹介するのは、1969年発売の彼等の2枚目のシングル「粋なうわさ」と、1977年発売の19枚目のシングル「さらば愛の季節」であります。

1969 ヒデとロザンナ 「粋なうわさ」


ヒデとロザンナと言えば、大ヒットしたデビュー曲の「愛の奇跡」であり、1970年の大ヒットでその年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした「愛は傷つきやすく」を誰もが思い浮かべるところでしょうが、ここではちょっと見過ごされがちな曲をセレクトしてみました。

「愛の奇跡」は作詞:中村小太郎/作曲:田辺信一のコンビによる作品でしたが、どちらかというとイタリアン・カンツオーネ的なイメージで少しばかり大袈裟な感じのする曲でした。そしてその次がこの「粋なうわさ」なのですが、作詞:橋本淳/作曲:筒美京平のコンビに代わります。まさに筒美京平ワールドと言いますか、タイトル通り小粋でファッショナブルな楽曲傾向になります。そしてこの軽妙でモダンなフィーリングこそが「ヒデとロザンナ」には実にピッタリくるように思います。歌い手が実に自然に気持ち良く歌っているのが聴き手の私たちにも伝わってきます。

同じような傾向の楽曲が1977の「さらば愛の季節」です。(埋め込み不可のため下記リンクをクリック^^)

Youtube動画:1977 ヒデとロザンナ 「さらば愛の季節」  作詞:橋本淳/作曲:東海林修

こういう軽い感じが自然なのは、ヒデこと出門英がそもそもボサノバ畑出身ということもあるかもしれません。「ヒデとロザンナ」の前にはボサノヴァ・デュオ「ユキとヒデ」(何とあの渡辺貞夫のプロデュース)として活動していたそうです。そして1968年にイタリア出身の少女ロザンナ・ザンボンと「ヒデとロザンナ」を結成して、デビュー曲「愛の奇跡」でブレイク、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たしたわけです。

二人は1975年2月の結婚を機に、それまでのコロムビア・レコードからワーナー・レコードに移籍します。この「さらば愛の季節」は結婚後の楽曲ということになりますかね。作曲は東海林修氏ですが、どこか筒美京平氏をしのばせる曲調です。

実は筒美京平氏は和製ボサノバに積極的だったようでして、ボサノバ畑出身のヒデに目をつけ「ヒデとロザンナ」に自ら積極的にアプローチしたということのようです。それが2枚目のシングル「粋なうわさ」のB面となった「愛のひととき」という楽曲で、和製ボサノバの隠れた名曲とされているようです。残念ながらこの楽曲はどこにもみつかりませんでした。ということでその代わりではありませんが、3枚目のシングル「ローマの奇跡」のB面に収められた「真夜中のボサノバ」を聴いてみてください。(作詞:橋本淳/作曲:筒美京平)

Youtube動画:1969 ヒデとロザンナ 「真夜中のボサノバ」

実にオシャレですよね。1960年代とはちょっと思えません。ただサビ部分の冒頭はボサノバというよりはまさに筒美京平ワールドと言う感じですね^^。

でもその後なかなかこういう感じの楽曲をサラッと歌えるグループは出てきていないように思います。セールス的にはパッとせず、ある意味実験的なチャレンジだったのかもしれませんが、40年経っても古さを感じさせず充分魅力的です。そんな出門英さんが1990年6月17日、47歳の若さで結腸ガンで亡くなられたことは残念な限りです。枯れた感じの和製ボサノバを聴いてみたかったような気がします。