2009.05.11
1973 RedBone 「Come and Get Your Love」
5月11日。曇りきょうもまた強風。5月も中旬だというのに朝晩がかなり冷え込みます。一端暖房は完全に停止させたのですが、あまりの寒さに今日の夕方からまた稼動させてしまいました。しかし北海道は何ですか?暖房を使う期間を良く良く考えてみると、秋口は10月からで、11月、12月、1月、2月、3月、4月、5月・・・・・何と12ヶ月のうち7ヶ月は暖房のお世話にならなきゃいけないんですな。ものすごくエネルギーを必要とする土地柄というわけです。ふう。
それでも日中は20度近くになり、庭の草花も一生懸命生命の輝きを見せてくれています。わが庵には桜はないのですが、それに代わってジューン・ベリーの樹が1本あって、今真っ白な花を咲かせています。まさに満開。しかし厄介者(雑草)もしっかり生命力を発揮していまして、今日は夕方雑草抜きに追われました。一番厄介なのがスギナで、毎年根っこから抜いても抜いても春になるとゾンビのように甦ります。しゃがみこみながら移植ゴテで掘り起こしながら抜いていくのですが、これが結構なハードワークなのであります。わが庭の土があまり質が良くないこともあって、まず堅いんです。1本のスギナを抜くのにも、移植ゴテの取っ手の先を手のひらに押し付けて思い切り土に差し込まなくちゃなりません。そんなこんなで気が付けば右手のひらは皮がむけ、脚はまるでうさぎ跳びをした後のような状態です。作業したのは1時間ほどですが、カラダは結構ボロボロのオヤジであります。
さて、先日インディアンをテーマにした楽曲を取り上げてみましたが、実際演奏していたり唄っているのは白人というケースでした。では先住民族のバンドなり歌手はいなかったのか?と探してみましたらしっかり存在していました。その代表格はRedBone(レッド・ボーン)。
バンドメンバー全員が先住民族のみで編成されたロック・バンドとして初めて米国でトップ10ヒットを記録しています。ヤキ族の出身のパトリック・ヴァスケス(Bass・Vocal)とロリー・ヴァスケス(Guitar・Vocal)のヴァスケス兄弟を核に、叔父はナバホ族の酋長というギタリストのトニー・ベラミー、シャイアン族の出身のドラムスのピーター・デポー・・・・。プロフィール的にはなかなか迫力があります(悪い意味じゃなくて)。
しかしこのバンドはインディアン的な部分(政治的メッセージ)を前面に押し出したバンドではありませんでした。各自が実にテクニックに優れていてジャズ的な演奏もすれば、歌もコーラスも抜群に上手く、。まさに他のポピュラー・ミュージックのバンドと同じ土俵で勝負していました。ロリー・ヴァスケスはハモンド・オルガンでおなじみのレスリー・ロータリー・スピーカーにエレキ・ギターを繋いだ先駆者であり、ドラムスのピーター・デポーはキング・コング・スタイルというドラムの手法を用いたパイオニア的存在でもあったようです。まずは彼らの最大のヒット曲を聴いてみて下さい。
1973 RedBone 「Come and Get Your Love」
何ともモータウン・サウンドのようです。ポップで踊れる曲です。しかし彼らはWounded Knee(ウンデッドニーの虐殺)についても唄っています。このあたりは民族的な誇りをしっかり持ち続けている証なんでしょうね。
Redbone Wounded Knee
小生はほとんど知らなかったのですが、70年代ではネイティヴ・アメリカンのミュージシャンというとJesse Ed Davis(ジェシ・エド・デイヴィス)が人気があったようです。こちらもよろしければどうぞ・・・・・。
Youtube動画:JESUS WAS AN OUT LAW TOO Bobby Jameson, Jesse Ed Davis, Randy Newman
他にネイティブ・アメリカンのミュージシャンはいないかと調べてみましたら、いました。リタ・クーリッジ(Rita Coolidge)。1945年5月1日、アメリカ合衆国テネシー州生まれ。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引いているそうです。1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動を開始し、1970年レオン・ラッセルらと共にジョー・コッカーの「Mad Dogs & Englishmen」に参加したリタは、ソロ・パートを与えられ、そこでかの名曲「Superstar」を歌って大いに注目を集め遂にA&Mからソロ・デビューする機会を得ることになります。彼女は実にモテたようで、当時はレオン・ラッセルと付き合っていたとか・・・・。その後ステーヴン・スティルスとグレアム・ナッシュが彼女を巡って三角関係・・・・・。なかなかお盛んだったようですな。
そしてクリス・クリストファースンが彼女を射止めることになります。結婚したクリスとリタが1973年に発表したデュエット・アルバム「Full Moon」に収録された「From The Bottom To The Bottom」でグラミー賞のカントリー・デュオ&グループ部門を受賞します。続いて第2弾のアルバム「Breakaway」からも「Lover Please」で同賞受賞。かくしてリタはメジャー・シンガーとして認知される存在となったわけです。しかしその後もカバー曲のヒットがほとんどで、彼女自身(ソロ)の代表曲と言えるものはなかなか見当たりません。
そんなリタですが、1994年、ロビー・ロバートソン(元ザ・バンド)が、アメリカ・インディアンをテーマとしたアルバム「MUSIC FOR THE NATIVE AMERICANS」を制作するにあたり、姉のプリシラとその娘のローラ・サッターフィールドと共に同作に参加します。これを契機に近年の彼女はチェロキー・インディアンの血を引く自身のルーツを探求する姿勢を強く持ち、「Cherokee」というアルバムを発表します。また、リタ、プリシラ、ローラの3人は、チェロキー族の伝統を前面に出したグループWALELA(チェロキー語で“hummingbird”という意味)を結成し幅広く活動を展開しているようです。
ではそんな WALELA の曲を1曲。
WALELA Cherokee Morning Song - I am of the Great Spirit
ある情報によりますと、リタ・クーリッジは2004年に日本人の大学教授と再婚したとのこと・・・・。老いて尚お盛んであります。その日本人大学教授って誰? 実に興味あります。
それでも日中は20度近くになり、庭の草花も一生懸命生命の輝きを見せてくれています。わが庵には桜はないのですが、それに代わってジューン・ベリーの樹が1本あって、今真っ白な花を咲かせています。まさに満開。しかし厄介者(雑草)もしっかり生命力を発揮していまして、今日は夕方雑草抜きに追われました。一番厄介なのがスギナで、毎年根っこから抜いても抜いても春になるとゾンビのように甦ります。しゃがみこみながら移植ゴテで掘り起こしながら抜いていくのですが、これが結構なハードワークなのであります。わが庭の土があまり質が良くないこともあって、まず堅いんです。1本のスギナを抜くのにも、移植ゴテの取っ手の先を手のひらに押し付けて思い切り土に差し込まなくちゃなりません。そんなこんなで気が付けば右手のひらは皮がむけ、脚はまるでうさぎ跳びをした後のような状態です。作業したのは1時間ほどですが、カラダは結構ボロボロのオヤジであります。
さて、先日インディアンをテーマにした楽曲を取り上げてみましたが、実際演奏していたり唄っているのは白人というケースでした。では先住民族のバンドなり歌手はいなかったのか?と探してみましたらしっかり存在していました。その代表格はRedBone(レッド・ボーン)。
バンドメンバー全員が先住民族のみで編成されたロック・バンドとして初めて米国でトップ10ヒットを記録しています。ヤキ族の出身のパトリック・ヴァスケス(Bass・Vocal)とロリー・ヴァスケス(Guitar・Vocal)のヴァスケス兄弟を核に、叔父はナバホ族の酋長というギタリストのトニー・ベラミー、シャイアン族の出身のドラムスのピーター・デポー・・・・。プロフィール的にはなかなか迫力があります(悪い意味じゃなくて)。
しかしこのバンドはインディアン的な部分(政治的メッセージ)を前面に押し出したバンドではありませんでした。各自が実にテクニックに優れていてジャズ的な演奏もすれば、歌もコーラスも抜群に上手く、。まさに他のポピュラー・ミュージックのバンドと同じ土俵で勝負していました。ロリー・ヴァスケスはハモンド・オルガンでおなじみのレスリー・ロータリー・スピーカーにエレキ・ギターを繋いだ先駆者であり、ドラムスのピーター・デポーはキング・コング・スタイルというドラムの手法を用いたパイオニア的存在でもあったようです。まずは彼らの最大のヒット曲を聴いてみて下さい。
1973 RedBone 「Come and Get Your Love」
何ともモータウン・サウンドのようです。ポップで踊れる曲です。しかし彼らはWounded Knee(ウンデッドニーの虐殺)についても唄っています。このあたりは民族的な誇りをしっかり持ち続けている証なんでしょうね。
Redbone Wounded Knee
小生はほとんど知らなかったのですが、70年代ではネイティヴ・アメリカンのミュージシャンというとJesse Ed Davis(ジェシ・エド・デイヴィス)が人気があったようです。こちらもよろしければどうぞ・・・・・。
Youtube動画:JESUS WAS AN OUT LAW TOO Bobby Jameson, Jesse Ed Davis, Randy Newman
他にネイティブ・アメリカンのミュージシャンはいないかと調べてみましたら、いました。リタ・クーリッジ(Rita Coolidge)。1945年5月1日、アメリカ合衆国テネシー州生まれ。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引いているそうです。1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動を開始し、1970年レオン・ラッセルらと共にジョー・コッカーの「Mad Dogs & Englishmen」に参加したリタは、ソロ・パートを与えられ、そこでかの名曲「Superstar」を歌って大いに注目を集め遂にA&Mからソロ・デビューする機会を得ることになります。彼女は実にモテたようで、当時はレオン・ラッセルと付き合っていたとか・・・・。その後ステーヴン・スティルスとグレアム・ナッシュが彼女を巡って三角関係・・・・・。なかなかお盛んだったようですな。
そしてクリス・クリストファースンが彼女を射止めることになります。結婚したクリスとリタが1973年に発表したデュエット・アルバム「Full Moon」に収録された「From The Bottom To The Bottom」でグラミー賞のカントリー・デュオ&グループ部門を受賞します。続いて第2弾のアルバム「Breakaway」からも「Lover Please」で同賞受賞。かくしてリタはメジャー・シンガーとして認知される存在となったわけです。しかしその後もカバー曲のヒットがほとんどで、彼女自身(ソロ)の代表曲と言えるものはなかなか見当たりません。
そんなリタですが、1994年、ロビー・ロバートソン(元ザ・バンド)が、アメリカ・インディアンをテーマとしたアルバム「MUSIC FOR THE NATIVE AMERICANS」を制作するにあたり、姉のプリシラとその娘のローラ・サッターフィールドと共に同作に参加します。これを契機に近年の彼女はチェロキー・インディアンの血を引く自身のルーツを探求する姿勢を強く持ち、「Cherokee」というアルバムを発表します。また、リタ、プリシラ、ローラの3人は、チェロキー族の伝統を前面に出したグループWALELA(チェロキー語で“hummingbird”という意味)を結成し幅広く活動を展開しているようです。
ではそんな WALELA の曲を1曲。
WALELA Cherokee Morning Song - I am of the Great Spirit
ある情報によりますと、リタ・クーリッジは2004年に日本人の大学教授と再婚したとのこと・・・・。老いて尚お盛んであります。その日本人大学教授って誰? 実に興味あります。
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5月7日。晴れしかし今日も強風。いよいよゴールデン・ウイークも終わって、今日から仕事再開という感じですね。小生はゴールデン・ウイークも平日も全然関係ないのですが、それでも社会の中で生きている関係から、どうしても社会のタイム・スケジュールに従わなくてはならないわけであります。さてわが庵の小さな庭にも少しずつ花が増えてきました。クロッカスは終わってしまいましたが、今は水仙とヒヤシンスが咲き誇っています。宿根草が薄い青の花と小さな黄色い花を一面に咲かせ始めました。ムラサキツツジの裸枝の先にも少しずつ赤紫の花が・・・・・。もう少しするとこの庭も一面いきなりの花盛りになりそうです。北海道では桜が終わると一気にたくさんの植物が花を咲かせます。雪に閉ざされていたあの時期から一変して劇的に春がやってきます。こんなオヤジでも少し気持ちがワクワクします^^。
今日は病院に行って、帰宅後は桜見物がてらブラブラ歩いて定額給付金の申請書類を投函してきました。その足でカジュアル・シャツを1枚買って、ドラッグストアに寄って、食品スーパーで活タコの頭(刺身用)を買い、最後に地元のパン屋さんで食パンを買って帰ってきました。最近では一番歩いたかもしれないなあ・・・・。
さて、前回は70年代の洋楽でLed Zeppelinを紹介しましたが、今日はそのハード・ロック路線ではなくて、その前のGrand Funk Railroadからの派生です。グランド・ファンクのギター&ボーカルのマーク・ファーナーがインディアンの血を引いている・・・・ということで、そう言えば70年代前半はインディアンを題材にした曲が結構あったことを思い出しました。今日はそのあたりの楽曲をご紹介したいと思います。
まず最も有名で最も売れたのが、The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」でしょう。マーク・リンゼイとレイダースが唄うこの曲は1971年全米No.1の大ヒットとなりました。
1971 The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」
歌詞は、“例えネクタイをしてYシャツを着ていても、私の身体にはチェロキーの血が流れている。そしてチェロキーの世界はまた甦る・・・・”というような内容です。詳しくはDejavuさんのサイト Pops foreverをご覧ください。(その他の洋楽の名曲も目白押しですよ)
またThe Raiders 自身のライブ映像もありました。
Youtube動画:Paul Revere & The Raiders - Indian Reservation
さてアメリカ大陸の先住民族のインディアンですが、1960年代までは<American Indian>という表現が使われてきましたが、少数派集団の人権意識が高まった60年代末からは<Indian American(インディアン系アメリカ人)>または<First American(最初のアメリカ人)>となり、現在では<Native American>という表現に定着したとのことです。16世紀当時アメリカには200万から300万人の先住民族が暮らしていたといわれています。東海岸でアメリカ人が独立し西部開拓を進めるようになると、建前上は先住民各部族と条約を結んで土地を割譲させたが、そのうち条約を破って侵入したり、強制移住法を制定して追放したり、あるいは武力を使って虐殺するようになったのです。このため19世紀後半には人口が激減しました。しかし彼らは白人の支配化に入ることを頑なに拒みました。このため白人は先住民族を労働力として奴隷化することができず、やむを得ずアフリカから黒人を奴隷として連れてきたという説を目にしたことがあります。
それにしても70年代前半になぜインディアンを題材にした楽曲が多く公開されて支持されたのか?それはヒッピー文化(フラワー・ムーブメント)もかなり影響していたのではないかという気がします。1960年代に高まった黒人革命は他の少数派集団にも大きな影響を与え、1968年には<ブラック・パワー>に呼応して先住民族は<レッド・パワー>を叫び、復権運動を全国レベルで展開しました。この時期こそまさにヒッピー文化の絶頂期でもあって、反戦運動と共鳴するような形で白人優越主義に基づく社会体制への批判が急速に高まったのではないか・・・・・と推測します。
1970年の「ソルジャー・ブルー」を皮切りに、ハリウッド映画も先住民族に対する評価をそれまでの野蛮人的な立ち位置から一変させたと言われています。そして1975年、政府は先住民族の自己決定(Self Determination)の権利を認め、その権利は着実に回復されつつあるようですが、その一方で現在でも全米には286カ所の先住民族居住地(Indian Reservation)があり、約200万人の先住民族のほぼ3分の2がその中に住んでいるとのこと。そしてその居住地の多くは荒野にあり、住民の多くがいまなお貧困のうちに暮らしているというのが現実のようです。
「嘆きのインディアン」に続くヒットといえば、これでしょうか。
1973 CHER(シェール) 「Half Breed」
これは1973年のビルボードの年間ヒットチャートで20位にランキングされました。ちなみに一つ上の19位は、あのStevie Wonderの「You Are The Sunshine Of My Life」でありました。
歌詞の内容もチェロキー族の父と白人の母との間に生まれた自分が、父方母方それぞれから、社会からも軽蔑された・・・・というように民族問題を真正面から取り上げたものです。最も音楽のクオリティが高かったのでこの動画をセレクトしましたが、なぜ映像がアニメの「犬夜叉」なのかはわかりません。シェール自身がこの「Half Breed」「Gypsy Tramps & Thieves」「Dark Lady」といったマイノリティを題材にした曲のメドレーを唄っている動画もありました。よろしければどうぞ・・・・。
Youtube動画:CHER Medley Half Breed Gypsy Tramps & Thieves Dark Lady
実は小生、インディアンと聞くと真っ先に思い浮かべるのは1910フルーツガム・カンパニーの「インディアン・ギバー(Indian Giver)」です。これは1969年の作品ですが、サウンド的にはインディアンの民族音楽的な雰囲気を纏ってはいるものの、真面目にインディアン問題を取り上げた楽曲ではなさそうです。歌詞は恋愛モノで、Indian Giverとは「与えたものを取り上げる奴」という意味で、「その気にさせておいて、去っていく恋しい人」というような感じのポップソングでした。まあついでですが、こんな感じです。
1910 Fruitgum Company - Indian Giver
でもこれらのインディアン関連の歌を歌っているのはいずれも白人で、グランド・ファンクのマーク・ファーナーのようにインディアンの血を引いているミュージシャンではありません。これまた何とも変な感じです。<レッド・パワー>の復権運動をうまく利用して商業的成功を狙った音楽業界が仕組んだもののような印象を強く受けます。なんか美しくない・・・・・。
次回はインディアンの血を引いているミュージシャンの音楽をちゃんと聴いてみたいと思います。
今日は病院に行って、帰宅後は桜見物がてらブラブラ歩いて定額給付金の申請書類を投函してきました。その足でカジュアル・シャツを1枚買って、ドラッグストアに寄って、食品スーパーで活タコの頭(刺身用)を買い、最後に地元のパン屋さんで食パンを買って帰ってきました。最近では一番歩いたかもしれないなあ・・・・。
さて、前回は70年代の洋楽でLed Zeppelinを紹介しましたが、今日はそのハード・ロック路線ではなくて、その前のGrand Funk Railroadからの派生です。グランド・ファンクのギター&ボーカルのマーク・ファーナーがインディアンの血を引いている・・・・ということで、そう言えば70年代前半はインディアンを題材にした曲が結構あったことを思い出しました。今日はそのあたりの楽曲をご紹介したいと思います。
まず最も有名で最も売れたのが、The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」でしょう。マーク・リンゼイとレイダースが唄うこの曲は1971年全米No.1の大ヒットとなりました。
1971 The Raiders 「Indian Reservation 邦題:嘆きのインディアン」
歌詞は、“例えネクタイをしてYシャツを着ていても、私の身体にはチェロキーの血が流れている。そしてチェロキーの世界はまた甦る・・・・”というような内容です。詳しくはDejavuさんのサイト Pops foreverをご覧ください。(その他の洋楽の名曲も目白押しですよ)
またThe Raiders 自身のライブ映像もありました。
Youtube動画:Paul Revere & The Raiders - Indian Reservation
さてアメリカ大陸の先住民族のインディアンですが、1960年代までは<American Indian>という表現が使われてきましたが、少数派集団の人権意識が高まった60年代末からは<Indian American(インディアン系アメリカ人)>または<First American(最初のアメリカ人)>となり、現在では<Native American>という表現に定着したとのことです。16世紀当時アメリカには200万から300万人の先住民族が暮らしていたといわれています。東海岸でアメリカ人が独立し西部開拓を進めるようになると、建前上は先住民各部族と条約を結んで土地を割譲させたが、そのうち条約を破って侵入したり、強制移住法を制定して追放したり、あるいは武力を使って虐殺するようになったのです。このため19世紀後半には人口が激減しました。しかし彼らは白人の支配化に入ることを頑なに拒みました。このため白人は先住民族を労働力として奴隷化することができず、やむを得ずアフリカから黒人を奴隷として連れてきたという説を目にしたことがあります。
それにしても70年代前半になぜインディアンを題材にした楽曲が多く公開されて支持されたのか?それはヒッピー文化(フラワー・ムーブメント)もかなり影響していたのではないかという気がします。1960年代に高まった黒人革命は他の少数派集団にも大きな影響を与え、1968年には<ブラック・パワー>に呼応して先住民族は<レッド・パワー>を叫び、復権運動を全国レベルで展開しました。この時期こそまさにヒッピー文化の絶頂期でもあって、反戦運動と共鳴するような形で白人優越主義に基づく社会体制への批判が急速に高まったのではないか・・・・・と推測します。
1970年の「ソルジャー・ブルー」を皮切りに、ハリウッド映画も先住民族に対する評価をそれまでの野蛮人的な立ち位置から一変させたと言われています。そして1975年、政府は先住民族の自己決定(Self Determination)の権利を認め、その権利は着実に回復されつつあるようですが、その一方で現在でも全米には286カ所の先住民族居住地(Indian Reservation)があり、約200万人の先住民族のほぼ3分の2がその中に住んでいるとのこと。そしてその居住地の多くは荒野にあり、住民の多くがいまなお貧困のうちに暮らしているというのが現実のようです。
「嘆きのインディアン」に続くヒットといえば、これでしょうか。
1973 CHER(シェール) 「Half Breed」
これは1973年のビルボードの年間ヒットチャートで20位にランキングされました。ちなみに一つ上の19位は、あのStevie Wonderの「You Are The Sunshine Of My Life」でありました。
歌詞の内容もチェロキー族の父と白人の母との間に生まれた自分が、父方母方それぞれから、社会からも軽蔑された・・・・というように民族問題を真正面から取り上げたものです。最も音楽のクオリティが高かったのでこの動画をセレクトしましたが、なぜ映像がアニメの「犬夜叉」なのかはわかりません。シェール自身がこの「Half Breed」「Gypsy Tramps & Thieves」「Dark Lady」といったマイノリティを題材にした曲のメドレーを唄っている動画もありました。よろしければどうぞ・・・・。
Youtube動画:CHER Medley Half Breed Gypsy Tramps & Thieves Dark Lady
実は小生、インディアンと聞くと真っ先に思い浮かべるのは1910フルーツガム・カンパニーの「インディアン・ギバー(Indian Giver)」です。これは1969年の作品ですが、サウンド的にはインディアンの民族音楽的な雰囲気を纏ってはいるものの、真面目にインディアン問題を取り上げた楽曲ではなさそうです。歌詞は恋愛モノで、Indian Giverとは「与えたものを取り上げる奴」という意味で、「その気にさせておいて、去っていく恋しい人」というような感じのポップソングでした。まあついでですが、こんな感じです。
1910 Fruitgum Company - Indian Giver
でもこれらのインディアン関連の歌を歌っているのはいずれも白人で、グランド・ファンクのマーク・ファーナーのようにインディアンの血を引いているミュージシャンではありません。これまた何とも変な感じです。<レッド・パワー>の復権運動をうまく利用して商業的成功を狙った音楽業界が仕組んだもののような印象を強く受けます。なんか美しくない・・・・・。
次回はインディアンの血を引いているミュージシャンの音楽をちゃんと聴いてみたいと思います。
2009.05.05
1970 Led Zeppelin 「Immigrant Song 邦題:移民の歌」
5月5日。終日うす曇。こどもの日でありました。しかし最近ではこんな田舎町でもデッカイ鯉のぼりが悠々と空を泳いでいる姿をとんと見なくなりました。桜は昨日の強風にも耐えたようです。2階の窓から見える景色もピンク色が日増しに強くなってきています。そろそろ見頃なんでしょうかね。しかし夜は冷えます。まだまだ暖房は手放せません。
昨日はグランド・ファンク・レイルロードについて書きましたが、1970年当時の洋楽シーンにおいては、好むと好まざるとにかかわらず、レッド・ツェッペリンを無視することは出来ません。当時の最先端の音楽を紹介してくれるメディアはAMラジオのヒットチャート番組であって、それを通して我々貧乏ティーンエイジャーは海外の文化に初めて触れるというのが通常でした。しかし当時は音楽はクラシックかポピュラーかに分けられていて(ジャズはちょっと例外的でしたが)、ポピュラー音楽は「洋楽か邦楽か?」といった単純なジャンル分けしかありませんでした。
この「Immigrant Song 邦題:移民の歌」がヒットした1971年のヒットチャートを見ると、例えばニッポン放送ポップス・ベストテンの年間ランキングの第1位は ビー・ジーズの「メロディ・フェア」 第2位はフランシス・レイ・オーケストラの「ある愛の詩」のサウンドトラックでした。そして第3位はミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」。この他には以前紹介したポップス系のハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズやオーシャン、ダニエル・ビダルにヘドバとダビデ・・・・。ロック系ではビートルズ解散後のポール・マッカートニー「アナザー・デイ」、ジョージ・ハリスン「マイ・スウィート・ロード」、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルやスリー・ドッグ・ナイト、チェイスやシカゴのブラスロックに、大御所のエルヴィス・プレスリー「この胸のときめきを」やローリング・ストーンズ「ブラウン・シュガー」などなど。
イージーリスニングの「ある愛の詩」あり、フレンチ・ポップスあり、ブラス・ロックあり、そしてハード・ロックのこの「移民の歌」まで何ともバラエティに富んでいます。しかし番組を聴いている我々は結果的にその幅広な音楽を聴いていたというわけでもあります。北海道ローカルのヒットチャート番組でもレッド・ツェッペリンの「移民の歌」はずいぶんと流されました。ロバート・プラントのあの絶叫をどれだけ聴いたことでしょう。時代は「ツェッペリンを聴かなきゃ洋楽は語れないよ・・・・。」という雰囲気に満ちていました。小生はその良さはなかなかわからなかったのですが、乗り遅れまいとして結局「移民の歌」のシングル盤を買ってしまいました。
まずはロック・ミュージックを革新したと言われる彼等の楽曲を聴いてみてください。著作権の関係がものすごくうるさいのがこのレッド・ツェッペリンです。あっという間に抹消される可能性がありますので、そのときはあしからず・・・・。
1970 Led Zeppelin 「Immigrant Song 邦題:移民の歌」
このレッド・ツェッペリンは1968年、ヤード・バーズ最後のギタリストであるジミー・ペイジが中心となって作ったスーパー・ロックグループ。デビュー当時はジミー・ペイジ以外はほとんどが無名だったということです。メンバーはもう言うまでもありませんが、ロバート・プラント(vo)、ジミー・ペイジ(g)、ジョン・ボーナム(ds)、ジョン・ポール・ジョーンズ(b・key)の4人編成。
1960年代中頃といえばイギリスではビートルズが圧倒的な存在感を誇っていたわけですが、そんな中でも若いミュージシャンの間では、ブルーズをベースにしてそれをドラマティックに表現するという方向性で新しいサウンドを作り上げていきました。それは後にハード・ロックと言われる音楽として世界中に広まっていったわけです。その代表格がレッド・ツェッペリンでした。彼らはヤードバース、クリームといった先進的なバンドが作り上げてきたロックをハード・ロックという概念で見事に集大成させたとして高く評価されています。また彼らの楽曲にはアコースティック・ナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に渡る幅広い音楽性を持ち、1960年代のビートルズとはまた違った方法論でロックの限界を押し広げたという側面もあるようです。
ハード・ロックを確立したバンドとしては彼らのほかにディープ・パープルの存在があります。しかし、ツェッペリンは繊細で計算し尽くされたサウンドを身上とし、とディープ・パープルはハード、ヘビイ、スピード、プラス哀愁のサウンドということで、両者の目指した音楽性には同じハード・ロックながら微妙に差異があったような感じがします。
それにしても レッド・ツェッペリンは爆発的に売れました。1969年10月に発売されたセカンドアルバムはビートルズの「アビーロード」を蹴落として英米共に7週連続1位、1970年10月発売のサードアルバムも英米共に1位・・・・。また1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベスト・グループ1位を獲得します。その後も解散するまで全てのアルバムが巨大セールスを記録、コンサートツアーでの観客動員数もトップだったということです。小生なんぞは、どうしてそこまで彼等の音楽が支持されたのか正直良く分かりません。いかに繊細で計算し尽くされたサウンドと言ってもそれほど革新的なこととも思えないし、演奏技術もそれほどのものとも思えないんです。どちらかというとディープ・パープルのサウンドのほうが親しみも持てるし、ビート感に溢れていて多くの人に受けるように思うのですが・・・・。そんな小生の評価はさておき、レッド・ツェッペリンは現代においてもアメリカだけでも年に100万枚以上のアルバム・セールスがあり、通算では1億枚を超えると言います。ちなみに全世界でのアルバム・セールスの累計は現在のところ3億枚を突破しているとか・・・・・。こうなると間違いなくポピュラー・ミュージック界の御三家入りですな(エルヴィス・プレスリー、ビートルズ、そしてレッド・ツェッペリン)。
衝撃的なデビューを果たした彼等ですが、オフステージでの乱痴気騒ぎはあたかも酒池肉林の様相だったようです。そんなこんなもあってメディアは彼等に対して終始批判的だったみたいです。また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリン女史に、ファミリーネームの無断使用ということで訴えられかけて、一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあったそうです。この訴訟でエヴァ女史は法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません」と宣言したと言われます。「ツェッペリン」という言葉が他には無いファミリーネームであって、それの無断使用云々というのはともかく、「金切り声を上げて飛び回る猿ども」という部分はあながち的外れではないような気がするオヤジであります。ただ「ロックとは体制や支配者に対する反抗である」という定義からすれば、上流階級の大好きな秩序だとかマナーなどをぶっ壊してこそロック的なのでしょうから、それは当然の成り行きなのかな・・・・とも思うのであります。ただ、音楽としてはあまり好みではないようで、彼等の音楽を以後ほとんど聴いたことが無いオヤジでありました。
昨日はグランド・ファンク・レイルロードについて書きましたが、1970年当時の洋楽シーンにおいては、好むと好まざるとにかかわらず、レッド・ツェッペリンを無視することは出来ません。当時の最先端の音楽を紹介してくれるメディアはAMラジオのヒットチャート番組であって、それを通して我々貧乏ティーンエイジャーは海外の文化に初めて触れるというのが通常でした。しかし当時は音楽はクラシックかポピュラーかに分けられていて(ジャズはちょっと例外的でしたが)、ポピュラー音楽は「洋楽か邦楽か?」といった単純なジャンル分けしかありませんでした。
この「Immigrant Song 邦題:移民の歌」がヒットした1971年のヒットチャートを見ると、例えばニッポン放送ポップス・ベストテンの年間ランキングの第1位は ビー・ジーズの「メロディ・フェア」 第2位はフランシス・レイ・オーケストラの「ある愛の詩」のサウンドトラックでした。そして第3位はミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」。この他には以前紹介したポップス系のハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズやオーシャン、ダニエル・ビダルにヘドバとダビデ・・・・。ロック系ではビートルズ解散後のポール・マッカートニー「アナザー・デイ」、ジョージ・ハリスン「マイ・スウィート・ロード」、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルやスリー・ドッグ・ナイト、チェイスやシカゴのブラスロックに、大御所のエルヴィス・プレスリー「この胸のときめきを」やローリング・ストーンズ「ブラウン・シュガー」などなど。

まずはロック・ミュージックを革新したと言われる彼等の楽曲を聴いてみてください。著作権の関係がものすごくうるさいのがこのレッド・ツェッペリンです。あっという間に抹消される可能性がありますので、そのときはあしからず・・・・。
1970 Led Zeppelin 「Immigrant Song 邦題:移民の歌」
このレッド・ツェッペリンは1968年、ヤード・バーズ最後のギタリストであるジミー・ペイジが中心となって作ったスーパー・ロックグループ。デビュー当時はジミー・ペイジ以外はほとんどが無名だったということです。メンバーはもう言うまでもありませんが、ロバート・プラント(vo)、ジミー・ペイジ(g)、ジョン・ボーナム(ds)、ジョン・ポール・ジョーンズ(b・key)の4人編成。
1960年代中頃といえばイギリスではビートルズが圧倒的な存在感を誇っていたわけですが、そんな中でも若いミュージシャンの間では、ブルーズをベースにしてそれをドラマティックに表現するという方向性で新しいサウンドを作り上げていきました。それは後にハード・ロックと言われる音楽として世界中に広まっていったわけです。その代表格がレッド・ツェッペリンでした。彼らはヤードバース、クリームといった先進的なバンドが作り上げてきたロックをハード・ロックという概念で見事に集大成させたとして高く評価されています。また彼らの楽曲にはアコースティック・ナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に渡る幅広い音楽性を持ち、1960年代のビートルズとはまた違った方法論でロックの限界を押し広げたという側面もあるようです。
ハード・ロックを確立したバンドとしては彼らのほかにディープ・パープルの存在があります。しかし、ツェッペリンは繊細で計算し尽くされたサウンドを身上とし、とディープ・パープルはハード、ヘビイ、スピード、プラス哀愁のサウンドということで、両者の目指した音楽性には同じハード・ロックながら微妙に差異があったような感じがします。
それにしても レッド・ツェッペリンは爆発的に売れました。1969年10月に発売されたセカンドアルバムはビートルズの「アビーロード」を蹴落として英米共に7週連続1位、1970年10月発売のサードアルバムも英米共に1位・・・・。また1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベスト・グループ1位を獲得します。その後も解散するまで全てのアルバムが巨大セールスを記録、コンサートツアーでの観客動員数もトップだったということです。小生なんぞは、どうしてそこまで彼等の音楽が支持されたのか正直良く分かりません。いかに繊細で計算し尽くされたサウンドと言ってもそれほど革新的なこととも思えないし、演奏技術もそれほどのものとも思えないんです。どちらかというとディープ・パープルのサウンドのほうが親しみも持てるし、ビート感に溢れていて多くの人に受けるように思うのですが・・・・。そんな小生の評価はさておき、レッド・ツェッペリンは現代においてもアメリカだけでも年に100万枚以上のアルバム・セールスがあり、通算では1億枚を超えると言います。ちなみに全世界でのアルバム・セールスの累計は現在のところ3億枚を突破しているとか・・・・・。こうなると間違いなくポピュラー・ミュージック界の御三家入りですな(エルヴィス・プレスリー、ビートルズ、そしてレッド・ツェッペリン)。
衝撃的なデビューを果たした彼等ですが、オフステージでの乱痴気騒ぎはあたかも酒池肉林の様相だったようです。そんなこんなもあってメディアは彼等に対して終始批判的だったみたいです。また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリン女史に、ファミリーネームの無断使用ということで訴えられかけて、一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあったそうです。この訴訟でエヴァ女史は法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません」と宣言したと言われます。「ツェッペリン」という言葉が他には無いファミリーネームであって、それの無断使用云々というのはともかく、「金切り声を上げて飛び回る猿ども」という部分はあながち的外れではないような気がするオヤジであります。ただ「ロックとは体制や支配者に対する反抗である」という定義からすれば、上流階級の大好きな秩序だとかマナーなどをぶっ壊してこそロック的なのでしょうから、それは当然の成り行きなのかな・・・・とも思うのであります。ただ、音楽としてはあまり好みではないようで、彼等の音楽を以後ほとんど聴いたことが無いオヤジでありました。
2009.05.04
1971 GrandFunkRailroad 「Gimme Shelter」
5月4日。みどりの日と言うんですか?何だかとってつけたような国民の祝日です。今日は終日うす曇で気温も高かったのですが、一日中強風が吹き荒れていました。深夜の今も吹いています。桜はこのあたりでも咲き始めました。しかしこの強風で明日の朝には全部無くなってたりして・・・・・・。ま、いっか。
さて今日もグランド・ファンク・レイルロード第2弾です。グランド・ファンク・レイルロードの宣伝コピーは、「アメリカンNo.1ロック・バンド、驚異の暴走列車GFR」という何とも凄まじいものでした。
バンド名自体ははアメリカの鉄道会社「Grand Trunk Western Railroad」をもじって名付けられたということですが、<レイルロード>から<暴走列車>という宣伝文句が出てきたんでしょうね。何だかスティーブン・セガールの<暴走>シリーズみたいですね。
1970年代初頭のアメリカでは、以前ご紹介したヒッピー・カルチャー(フラワー・ムーブメント)やサイケデリック・ブームが一段落し、それを吸収したブリティッシュ勢が、ハード・ロック(レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルetc)とプログレッシヴ・ロック(ピンク・フロイド、キング・クリムゾンetc)に分かれ、大挙して巨大市場のアメリカへ渡ってきた頃にあたります。そんな中アメリカ国内である程度確固たる支持を得て活躍していたバンドといえば、クリーデンス・クリアウオーター・リバイバルくらいだったのではないでしょうか。しかし彼等のサウンドも革新的なサウンドと派手なパフォーマンスのブリティッシュ勢の前ではいかにも泥臭く地味であって、少々時代遅れの感は否めませんでした。
そんなブリティッシュ・ハード・ロックの嵐がアメリカ中で吹き荒れる中にあって、唯一アメリカで対抗できるハード・ロック・バンドがグランド・ファンク・レイルロードだったと言われます。彼らは当時勃興していたハード・ロックのスタイルをいち早く取り入れ、アルバム「On Time 邦題:グランド・ファンク・レイルロード登場!」でデビューを果たします。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演に際してその前座を務めたのですが、その凄まじいボーカルと迫力満点のサウンドで聴衆を熱狂させ、メインのレッド・ツェッペリンを食ってしまった・・・・という逸話も残されています。この出来事でロック・ファンにその名が浸透し、彼らは一躍時代の寵児となっていきました。この1stアルバムからシングルカットされた「ハート・ブレイカー」は今やハード・ロックの古典となっており、あの井上陽水の名を一躍知らしめた「傘がない」はこの曲のコード進行を模倣したものだということです。
オリジナルメンバーは、
Mark Farner マーク・ファーナー/ギター・ヴォーカル
Don Brewer ドン・ブリューワー/ドラムス、ヴォーカル
Mel Schacher メル・サッチャー/ベース・ギター
たった3人のバンドなのですが、そのサウンドの分厚さはちょっと信じられないくらいです。当時のブリティッシュ・ロックがビートルズを超える手法として、クラシック・ミュージック等と組み合わされた難解なサウンドを作り上げるような方向に向かう中、グランド・ファンク・レイルロードはそんな難解さとは正反対のストレートさとパワーでゴリゴリ押していく方向でひた走ったわけですが、そのパフォーマンスの派手さではブリティッシュ勢に全く引けを取らないバンドでもありました。この辺の潔さがグランド・ファンク・レイルロードの曲から溢れ出しているように小生なんぞは感じます。
前置きが長くなってしまいました。まずは聴いていただきましょうかね。
1971 GrandFunkRailroad 「Gimme Shelter」
この「Gimme Shelter」は、スタジオ盤として4作目にあたるこ1971年発売のアルバム「サバイバル」に収められた曲です。これはロックファンならご存知でしょうが、ローリング・ストーンズのカバーになります。静かでどこか幻想的な感じのするイントロとグランド・ファンクらしさ溢れる直線的ハード・ロックのコントラストが実に印象的な曲で小生の中では一番のお気に入りです。
彼らのサウンドをあえて表現する言葉を一つ選ぶとすれば、それは「豪放」・・・・・という感じです。特に「アメリカン・バンド」ではドラムを叩きながら唄うドンの迫力溢れるヴォーカルは圧巻です。それにしてもあれだけパワフルにドラムを叩きながら、あれだけの声量で唄うのは物凄いことだと思います。それでいて、ドラムもボーカルもブレることがない・・・・これはなかなか真似の出来ないことなんじゃないかと心底感心します。とにもかくにもストレートかつパワフル、陽気で乾いたサウンド、ステージ・パフォーマンス、どこをとっても実にアメリカ的であります。
ではその「アメリカン・バンド」をライブ映像で・・・・。
Grand Funk Railroad - We're An American Band LIVE - 1974
この曲は1972年にキーボードのCraig Frost(クレイグ・フロスト)が加入し、バンド名を「グランド・ファンク」に改めて1973年にリリースされた8作目のアルバム「アメリカン・バンド」の代表曲であります。このアルバムはプロデューサーに奇才トッド・ラングレンを迎えて全米2位の大ヒットとなり、同シングルはハードロック・バンドとしては異例の全米No.1に輝きました。ここにグランド・ファンクは名実共に世界で認められる偉大なるロック・バンドとなったわけであります。しかし上半身裸という従来からのスタイルは崩していませんネエ^^。
さて昨日もちょっと触れましたが、当時のロック伝説のひとつとして語り草になっている1971年の激しい雷雨の中で行なわれた後楽園球場での来日公演の様子はこんな感じだったようです。
1971年7月17日に後楽園球場で行われた「ロック・カーニバル#6」にグランド・ファンク・レイルロードが真打ちとして出演。他の出演者は、モップス、麻生レミ、マッシュ・マッカーン。マッシュ・マッカーンの演奏が終わった午後8時頃から雨が降り始め、1時間半演奏中断。聴衆は雨に打たれながらグランド・ファンク・レイルロードの登場を待ち続けた。雨が止み午後9時半から演奏再開するも再び雨が降り出す。彼らは激しい雷雨にズブ濡れになりながらも演奏続行し、午後10時40分にアンコールナンバー「INSIDE LOOKING OUT」で終演。3万5000人の観客が激しい雨の中熱狂に包まれた。入場できなかった2000人が機動隊と揉み合いを演じた・・・・。このライブが生演奏だったのか?それともテープに合わせたクチパクだったのか?が当時論争されたわけであります。(あの豪雨の中電気楽器を弾いていたら感電しちゃうだろ・・・・・ってことでした。)
いずれにせよ1970年代前半のアメリカのハードロック界で孤軍奮闘した彼らは、何だかんだ言ってもやはり偉大なアメリカン・バンドだったと思います。そう言えば、ギター&ボーカルのマーク・ファーナーはインディアンの血を引いているとのこと。ロックにおいても、アングロ・サクソン(イギリス)の侵攻に対抗したのがネイティブ・アメリカンであるグランド・ファンク・レイルロードだった・・・ということに何となく歴史的な皮肉を感じてしまうオヤジでありました。
さて今日もグランド・ファンク・レイルロード第2弾です。グランド・ファンク・レイルロードの宣伝コピーは、「アメリカンNo.1ロック・バンド、驚異の暴走列車GFR」という何とも凄まじいものでした。
バンド名自体ははアメリカの鉄道会社「Grand Trunk Western Railroad」をもじって名付けられたということですが、<レイルロード>から<暴走列車>という宣伝文句が出てきたんでしょうね。何だかスティーブン・セガールの<暴走>シリーズみたいですね。
1970年代初頭のアメリカでは、以前ご紹介したヒッピー・カルチャー(フラワー・ムーブメント)やサイケデリック・ブームが一段落し、それを吸収したブリティッシュ勢が、ハード・ロック(レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルetc)とプログレッシヴ・ロック(ピンク・フロイド、キング・クリムゾンetc)に分かれ、大挙して巨大市場のアメリカへ渡ってきた頃にあたります。そんな中アメリカ国内である程度確固たる支持を得て活躍していたバンドといえば、クリーデンス・クリアウオーター・リバイバルくらいだったのではないでしょうか。しかし彼等のサウンドも革新的なサウンドと派手なパフォーマンスのブリティッシュ勢の前ではいかにも泥臭く地味であって、少々時代遅れの感は否めませんでした。
そんなブリティッシュ・ハード・ロックの嵐がアメリカ中で吹き荒れる中にあって、唯一アメリカで対抗できるハード・ロック・バンドがグランド・ファンク・レイルロードだったと言われます。彼らは当時勃興していたハード・ロックのスタイルをいち早く取り入れ、アルバム「On Time 邦題:グランド・ファンク・レイルロード登場!」でデビューを果たします。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演に際してその前座を務めたのですが、その凄まじいボーカルと迫力満点のサウンドで聴衆を熱狂させ、メインのレッド・ツェッペリンを食ってしまった・・・・という逸話も残されています。この出来事でロック・ファンにその名が浸透し、彼らは一躍時代の寵児となっていきました。この1stアルバムからシングルカットされた「ハート・ブレイカー」は今やハード・ロックの古典となっており、あの井上陽水の名を一躍知らしめた「傘がない」はこの曲のコード進行を模倣したものだということです。
オリジナルメンバーは、
Mark Farner マーク・ファーナー/ギター・ヴォーカル
Don Brewer ドン・ブリューワー/ドラムス、ヴォーカル
Mel Schacher メル・サッチャー/ベース・ギター
たった3人のバンドなのですが、そのサウンドの分厚さはちょっと信じられないくらいです。当時のブリティッシュ・ロックがビートルズを超える手法として、クラシック・ミュージック等と組み合わされた難解なサウンドを作り上げるような方向に向かう中、グランド・ファンク・レイルロードはそんな難解さとは正反対のストレートさとパワーでゴリゴリ押していく方向でひた走ったわけですが、そのパフォーマンスの派手さではブリティッシュ勢に全く引けを取らないバンドでもありました。この辺の潔さがグランド・ファンク・レイルロードの曲から溢れ出しているように小生なんぞは感じます。
前置きが長くなってしまいました。まずは聴いていただきましょうかね。
1971 GrandFunkRailroad 「Gimme Shelter」
この「Gimme Shelter」は、スタジオ盤として4作目にあたるこ1971年発売のアルバム「サバイバル」に収められた曲です。これはロックファンならご存知でしょうが、ローリング・ストーンズのカバーになります。静かでどこか幻想的な感じのするイントロとグランド・ファンクらしさ溢れる直線的ハード・ロックのコントラストが実に印象的な曲で小生の中では一番のお気に入りです。
彼らのサウンドをあえて表現する言葉を一つ選ぶとすれば、それは「豪放」・・・・・という感じです。特に「アメリカン・バンド」ではドラムを叩きながら唄うドンの迫力溢れるヴォーカルは圧巻です。それにしてもあれだけパワフルにドラムを叩きながら、あれだけの声量で唄うのは物凄いことだと思います。それでいて、ドラムもボーカルもブレることがない・・・・これはなかなか真似の出来ないことなんじゃないかと心底感心します。とにもかくにもストレートかつパワフル、陽気で乾いたサウンド、ステージ・パフォーマンス、どこをとっても実にアメリカ的であります。
ではその「アメリカン・バンド」をライブ映像で・・・・。
Grand Funk Railroad - We're An American Band LIVE - 1974
この曲は1972年にキーボードのCraig Frost(クレイグ・フロスト)が加入し、バンド名を「グランド・ファンク」に改めて1973年にリリースされた8作目のアルバム「アメリカン・バンド」の代表曲であります。このアルバムはプロデューサーに奇才トッド・ラングレンを迎えて全米2位の大ヒットとなり、同シングルはハードロック・バンドとしては異例の全米No.1に輝きました。ここにグランド・ファンクは名実共に世界で認められる偉大なるロック・バンドとなったわけであります。しかし上半身裸という従来からのスタイルは崩していませんネエ^^。
さて昨日もちょっと触れましたが、当時のロック伝説のひとつとして語り草になっている1971年の激しい雷雨の中で行なわれた後楽園球場での来日公演の様子はこんな感じだったようです。
1971年7月17日に後楽園球場で行われた「ロック・カーニバル#6」にグランド・ファンク・レイルロードが真打ちとして出演。他の出演者は、モップス、麻生レミ、マッシュ・マッカーン。マッシュ・マッカーンの演奏が終わった午後8時頃から雨が降り始め、1時間半演奏中断。聴衆は雨に打たれながらグランド・ファンク・レイルロードの登場を待ち続けた。雨が止み午後9時半から演奏再開するも再び雨が降り出す。彼らは激しい雷雨にズブ濡れになりながらも演奏続行し、午後10時40分にアンコールナンバー「INSIDE LOOKING OUT」で終演。3万5000人の観客が激しい雨の中熱狂に包まれた。入場できなかった2000人が機動隊と揉み合いを演じた・・・・。このライブが生演奏だったのか?それともテープに合わせたクチパクだったのか?が当時論争されたわけであります。(あの豪雨の中電気楽器を弾いていたら感電しちゃうだろ・・・・・ってことでした。)
いずれにせよ1970年代前半のアメリカのハードロック界で孤軍奮闘した彼らは、何だかんだ言ってもやはり偉大なアメリカン・バンドだったと思います。そう言えば、ギター&ボーカルのマーク・ファーナーはインディアンの血を引いているとのこと。ロックにおいても、アングロ・サクソン(イギリス)の侵攻に対抗したのがネイティブ・アメリカンであるグランド・ファンク・レイルロードだった・・・ということに何となく歴史的な皮肉を感じてしまうオヤジでありました。
5月3日憲法記念日の祝日であり日曜日。ゴールデンウイークど真ん中ですね。お天気もまずまずだし、高速道路どこまで行っても1000円大作戦で、皆さんクルマをかっ飛ばして大いに遊ばれているんでしょうね。ちょっと前までは石油価格の高騰で車に乗るのを手控えていた人も、値段が下がれば燃費など気にすることも無くガンガン乗り回しますよね。政府もCO2削減のため自家用車に乗るのは控えよう的なメッセージを出していたように記憶していますが、値段が下がった途端CO2削減なんぞどこかに吹き飛んで、高速使ってガンガン走ってください。それが景気回復につながる・・・・・と。渋滞になるとCO2の排出量は通常走行時に比べて何倍も増加しますが、そんなこたあ知ったこっちゃネエ・・・・。そんなこんなをイヤと言うほど見せ付けられてきました。だからお上は信用なりません。
世界中で弱毒性とはいえ、新型インフルエンザが大流行か!という真っ只中でも、せっかくのゴールデンウイークなんだから海外に遊びに行かなくちゃ気がすまない・・・・という日本人の多いこと多いこと。こんなときは「不要不急の海外渡航は止めておこうか・・・・。」というのが通常の感覚だと思うのですが、自分だけは大丈夫だと思っているんでしょうね。今ですらこれだけ神経を尖らせて水際作戦でウイルスの侵入を食い止めようと努力しているのに、ドッと海外に遊びに行って、その人たちがドッと帰ってくることを考えれば、ウイルスの日本侵入はどうしたって避けられないでしょうね。仮に何かあったら自己責任の範囲内で済む問題ならいざしらず、知らないうちに自分がキャリアになってウイルスを日本国内に持ち込むリスクがいかに高かろうと「そんなの関係ネエ」。 利己主義の典型を見ているようです。まあこの程度の国なんでしょうな、この国は。(フウ)
今日テレビの日曜映画劇場で役所広司主演の「象の背中」という日本映画が放送されていました。まあ何となく見ていたのですが、正直な印象は「主人公は何て幸せな人なんだろうなあ・・・・。」ということ。 「あんな環境のいいホスピスで優雅に死んでいけるなんてのは贅沢だなあ・・・・。」 「大切な人に見守られて死んでいける人が実際にはどれだけいるんだろうか? さしずめ自分などは誰にも看取られることなく野垂れ死にだろうなあ・・・・。」

物語的にも登場人物的にも、「死」という極めて現実的なことがらに対して、かなり非現実的な印象を持ちました。「あんなにいい家庭があるのかね? 妻は不倫している夫にあんなに寛容になれるのかね? あの年頃の子供が親にあんなに素直なものなのかね?」 「なんであんなにキレイな奥さんがいて、美男の息子がいて、可愛い娘がいるわけ?」 「どうして不倫相手があんなにいい女なわけ?」 ひとつひとつを見ていくと、泣ける物語の割りに、「ちょっと、勘弁して欲しい・・・・」という感覚にもなりました。やっぱり秋元康の原作自体が非現実的なんでしょうね。秋元康ならあるかもしれないけど、一般ピーポーはなかなかそうはいかないでしょう・・・・。
そんな中で、死期が近づいたとき兄貴役の岸部一徳と役所広司が二人きりで話しをするシーンがありました。役所広司が「自分が死んだら、骨を愛人のために分骨して欲しい。」という遺言を兄の岸部一徳にするシーンでしたが、そこでの二人のやりとりは、弟の遺言を聞かなくちゃならない兄貴の辛さが滲み出る一方、死に行く者を安心させてやりたいという肉親の情みたいなものが出ていて、唯一リアリティがあって実にいいシーンでした。
また昔ささいなことで喧嘩別れした旧友(高橋克美)と再会するシーンでは、「俺たちが何で喧嘩別れしたか、その原因を覚えてるか?」という問いに「あの1971年のグランド・ファンクの豪雨の後楽園球場ライブは生演奏だったか?それともテープだったか?ってことだったよな・・・・・」というセリフがありました。それを聞いて小生は、「なんだ、この主人公はだいたい同年代だったんだ・・・。」と思いました。当時の中学生にとっては、このグランド・ファンク・レイルロードは物凄いハード・ロック・バンドであって、豪雨の後楽園球場ライブはそれほどまでに伝説になっているということであります。
長ーーーくなりましたが、本日ご紹介するのはそのグランド・ファンク・レイルロードであります。久しぶりに70年代の洋楽に戻ってきました(笑)
1970 Grand Funk Railroad 「Inside Looking Out 邦題:孤独の叫び」
この曲は何と9分30秒あります。当時シングル盤は45回転のドーナッツ盤でしたが、この曲に関してはEPレコードと同じ17センチ盤ながら33回転盤として登場しました。それでなければ1曲を収め切れなかったわけであります。小生自身はこのレコードを持っていませんでしたが、中学の同級生のY下君が持っていました。何で買ったのか?と尋ねたら、音楽の内容どうこうでなくて、「だって同じ値段で3倍の長さだぜ・・・・・。」 当時はそんなもんでした。
この曲はアニマルズが1966年にヒットさせたものカバーなのですが、グランド・ファンク・レイルロードの演奏は実に力強く、原曲とは別物と言っていいほどの圧倒的にパワフルなロックナンバーに仕上がっています。今聴いても、「やっぱりスゴイ・・・・・。」 そのエネルギーは凄まじく、体調の良くないときにはちょっと聴けたものではありません。
小生がこの曲を聴いたのはおそらく1971年だったと思います。中学3年生の頃です。あの伝説の豪雨の後楽園球場ライブの後、日本の洋楽シーンに圧倒的な存在感を示したあとのことだと思います。それにしてもこのグランド・ファンク・レイルロードのサウンドって本当にスゴイと思いませんか?ギター・ベース・ドラムスの3人でやっているんですよ。その事実に小生などはもう脱帽です。Youtubeには彼等の実際の演奏シーンを収められた同曲の動画もありました。よろしければこちらもどうぞ・・・・。
Grand Funk Railroad - Inside Looking Out 1969
実は小生が彼等の楽曲で一番好きだったのは「Gimme Shelter」という曲でした。今日は長くなってしまったのでまた後日ということで・・・・・。
世界中で弱毒性とはいえ、新型インフルエンザが大流行か!という真っ只中でも、せっかくのゴールデンウイークなんだから海外に遊びに行かなくちゃ気がすまない・・・・という日本人の多いこと多いこと。こんなときは「不要不急の海外渡航は止めておこうか・・・・。」というのが通常の感覚だと思うのですが、自分だけは大丈夫だと思っているんでしょうね。今ですらこれだけ神経を尖らせて水際作戦でウイルスの侵入を食い止めようと努力しているのに、ドッと海外に遊びに行って、その人たちがドッと帰ってくることを考えれば、ウイルスの日本侵入はどうしたって避けられないでしょうね。仮に何かあったら自己責任の範囲内で済む問題ならいざしらず、知らないうちに自分がキャリアになってウイルスを日本国内に持ち込むリスクがいかに高かろうと「そんなの関係ネエ」。 利己主義の典型を見ているようです。まあこの程度の国なんでしょうな、この国は。(フウ)

今日テレビの日曜映画劇場で役所広司主演の「象の背中」という日本映画が放送されていました。まあ何となく見ていたのですが、正直な印象は「主人公は何て幸せな人なんだろうなあ・・・・。」ということ。 「あんな環境のいいホスピスで優雅に死んでいけるなんてのは贅沢だなあ・・・・。」 「大切な人に見守られて死んでいける人が実際にはどれだけいるんだろうか? さしずめ自分などは誰にも看取られることなく野垂れ死にだろうなあ・・・・。」

物語的にも登場人物的にも、「死」という極めて現実的なことがらに対して、かなり非現実的な印象を持ちました。「あんなにいい家庭があるのかね? 妻は不倫している夫にあんなに寛容になれるのかね? あの年頃の子供が親にあんなに素直なものなのかね?」 「なんであんなにキレイな奥さんがいて、美男の息子がいて、可愛い娘がいるわけ?」 「どうして不倫相手があんなにいい女なわけ?」 ひとつひとつを見ていくと、泣ける物語の割りに、「ちょっと、勘弁して欲しい・・・・」という感覚にもなりました。やっぱり秋元康の原作自体が非現実的なんでしょうね。秋元康ならあるかもしれないけど、一般ピーポーはなかなかそうはいかないでしょう・・・・。
そんな中で、死期が近づいたとき兄貴役の岸部一徳と役所広司が二人きりで話しをするシーンがありました。役所広司が「自分が死んだら、骨を愛人のために分骨して欲しい。」という遺言を兄の岸部一徳にするシーンでしたが、そこでの二人のやりとりは、弟の遺言を聞かなくちゃならない兄貴の辛さが滲み出る一方、死に行く者を安心させてやりたいという肉親の情みたいなものが出ていて、唯一リアリティがあって実にいいシーンでした。
また昔ささいなことで喧嘩別れした旧友(高橋克美)と再会するシーンでは、「俺たちが何で喧嘩別れしたか、その原因を覚えてるか?」という問いに「あの1971年のグランド・ファンクの豪雨の後楽園球場ライブは生演奏だったか?それともテープだったか?ってことだったよな・・・・・」というセリフがありました。それを聞いて小生は、「なんだ、この主人公はだいたい同年代だったんだ・・・。」と思いました。当時の中学生にとっては、このグランド・ファンク・レイルロードは物凄いハード・ロック・バンドであって、豪雨の後楽園球場ライブはそれほどまでに伝説になっているということであります。
長ーーーくなりましたが、本日ご紹介するのはそのグランド・ファンク・レイルロードであります。久しぶりに70年代の洋楽に戻ってきました(笑)
1970 Grand Funk Railroad 「Inside Looking Out 邦題:孤独の叫び」
この曲は何と9分30秒あります。当時シングル盤は45回転のドーナッツ盤でしたが、この曲に関してはEPレコードと同じ17センチ盤ながら33回転盤として登場しました。それでなければ1曲を収め切れなかったわけであります。小生自身はこのレコードを持っていませんでしたが、中学の同級生のY下君が持っていました。何で買ったのか?と尋ねたら、音楽の内容どうこうでなくて、「だって同じ値段で3倍の長さだぜ・・・・・。」 当時はそんなもんでした。
この曲はアニマルズが1966年にヒットさせたものカバーなのですが、グランド・ファンク・レイルロードの演奏は実に力強く、原曲とは別物と言っていいほどの圧倒的にパワフルなロックナンバーに仕上がっています。今聴いても、「やっぱりスゴイ・・・・・。」 そのエネルギーは凄まじく、体調の良くないときにはちょっと聴けたものではありません。
小生がこの曲を聴いたのはおそらく1971年だったと思います。中学3年生の頃です。あの伝説の豪雨の後楽園球場ライブの後、日本の洋楽シーンに圧倒的な存在感を示したあとのことだと思います。それにしてもこのグランド・ファンク・レイルロードのサウンドって本当にスゴイと思いませんか?ギター・ベース・ドラムスの3人でやっているんですよ。その事実に小生などはもう脱帽です。Youtubeには彼等の実際の演奏シーンを収められた同曲の動画もありました。よろしければこちらもどうぞ・・・・。
Grand Funk Railroad - Inside Looking Out 1969
実は小生が彼等の楽曲で一番好きだったのは「Gimme Shelter」という曲でした。今日は長くなってしまったのでまた後日ということで・・・・・。